EVOLUTION

 

知の巨人アリストテレス、分類学の父リンネ、

古生物学の創始者キュヴィエと連なる、自然に対する知識を体系化する博物学は、

19世紀半ばにダーウィンとウォーレスの進化論に到達した。

事実に基づき、歴代の学者たちが打ち立てた仮説の数々を丁寧に読み解きながら、

分子系統学の登場で新たな時代を迎えた“進化学の現在”までを追う。



著者プロフィール
長谷川政美(はせがわ まさみ)

1944年生まれ。進化生物学者。統計数理研究所名誉教授。総合研究大学院大学名誉教授。理学博士(東京大学)。著書に『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史』(ベレ出版)『分子系統学』(岸野洋久氏との共著)『DNAに刻まれたヒトの歴史』(共に岩波書店)『新図説 動物の起源と進化―書きかえられた系統樹』(八坂書房)など多数。1993年に日本科学読物賞、1999年に日本遺伝学会木原賞、2005年に日本進化学会賞・木村資生記念学術賞など受賞歴多数。進化が一目でわかる「系統樹マンダラ」シリーズ・ポスターは全編監修を務める。

 

進化の歴史

ー時間と空間が織りなす生き物のタペストリー


第50話

脳の進化

文と写真 長谷川政美

人間と高等動物の精神との間の差がいかに大きいとしても、それは程度の問題であって、質の問題ではない。
チャールズ・ダーウィン(1871)「人間の進化と性淘汰」第2章

脳多様性

チンパンジーに対して、ヒトの写真を使って顔認識テストをすると、彼らはうまく見分けられない。そのためチンパンジーの顔認識能力はヒトにくらべて劣っていると考えられた。ヒトである研究者にとっては、ヒトの顔は一人一人違って見えるのに、チンパンジーの顔はみな同じように見える。従って研究者は、ヒトの顔を見分けられないチンパンジーが、ほかのチンパンジーの顔を見分けられるはずはないと考えたのだ。図50-1にチンパンジーの顔写真をいくつか示したが、読者の皆さんにとっては、どうであろうか?

図50-1. ヒトに一番近い親戚であるチンパンジーの顔写真。

1999年になって、アメリカ・ヤーキーズ霊長類研究センターのリサ・パーとフランス・ドゥ・ヴァールがチンパンジーの顔写真を使ってテストしたところ、チンパンジーの同種間の顔認識能力はヒトに劣るものではないことが分かった。チンパンジーは、一度も出会ったことのないチンパンジーの写真から血縁関係にさえ気づいたという。
ヒトの顔の違いはわれわれヒトには目につくが、チンパンジーの顔の違いはあまり分からない。チンパンジーにとっては逆にチンパンジーの顔の違いが目につくのだ。このNature誌に掲載された研究が、1999年になるまで行われなかったことは、驚くべきことである。科学者は意図的ではなかったとしても、人間中心の尺度で多様な世界を測ろうとしてきたのだ。それは第1話で述べた「自然の階段」の世界観であった。自然の階段のような人間中心の世界観からは、多様な世界のごく一部しか見えない。
京都大学の松沢哲郎さんによると、ヒトの顔写真テストでは、写真が倒立の場合は、判断に要する時間が著しく延びるが、チンパンジーでテストすると、チンパンジーの写真が正立と倒立のどちらでもほとんど変わりないという。このことは、チンパンジーは森の空間を3次元的に利用していて様々な角度から対象を認識しているからだと考えられる。

◎動物の洞察力

ドイツの心理学者ヴォルフガング・ケーラーは1913年からカナリア諸島のテネリフェ島に滞在し、そこの類人猿研究所に飼われていたチンパンジーを観察した。まず、手が届かない地面にバナナを置き、短くてそれを使ってもバナナに届かないような竹の棒を何本か与えた。次に、高い所にバナナを置き、それに乗っただけではバナナに届かないような木箱をいくつか周りに置いたりした。このようなそれぞれの状況で、チンパンジーは解決策を発見したという。第1の状況では、一本の竹棒の端を別の棒に差し込んで長い棒にして、バナナを引き寄せた。また、第2の状況では、箱を積み重ねてその上に乗ってバナナをとることができた。これは試行錯誤の結果としてたまたま成功したのではなく、チンパンジーがある種の洞察力をもって頭の中で解決策を見出したということである。
ニュージーランド・オークランド大学のアレックス・テイラーらは2007年に、ニューカレドニアカラスCorvus moneduloidesを使った実験結果を報告している。彼らは、カラスに肉片を示したが、それは長い棒を使わなければとれない位置にあった。ところが、長い棒は格子の向こう側にあり、カラスの嘴は届かない。嘴の届くところに短い棒を置いたところ、カラスはまず短い棒を使って、長い棒を引き寄せ、さらにその長い棒を使って肉片を得たという。これは、カラスにもある程度の洞察力があることを示していると考えられる。

◎ヒトよりも優れたチンパンジーの記憶力

京都大学霊長類研究所の井上紗奈さんと松沢哲郎さんは2007年に、チンパンジーの記憶能力でヒトよりも優れている面があることを見出した。それは図50-2aのようにタッチスクリーン上のランダムな位置に現れる1から9までの数字を小さい順にタッチしていくテストだが、1にタッチした途端にほかの数字は図50-2bのように隠されてしまうという設定である。従ってチンパンジーはすべての数字の配置をおぼえなければならないが、図50-2aのような画面を0.21秒間見ただけで、おぼえてしまうという。

図50-2.チンパンジーの瞬間記憶テスト。チンパンジーにタッチスクリーン上で(a)の画面を見せ、1から順に2、3、4、5、6、7、8、9の順にタッチさせる。この数字の配置は、やるたびにランダムに変わるが、チンパンジーが1にタッチした途端、ほかの数字は(b)のように隠れてしまうようになっている。つまり、チンパンジーはこれらの数字の配置をすべておぼえなければ正答は得られない。ところが、(a)の画面を0.21秒間見ただけで、正答率が80パーセントを超えたという。京都大学の下記サイトでこのテストの様子を記録したビデオを見ることができる:
http://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/en/gallery/video-chimp-Ayumu-memory-task.html

松沢さんによるとこのような瞬間記憶の能力は、ヒトとチンパンジーの共通祖先ももっていたという。ところが、ヒトは進化の過程でそうした能力を失い、その代わりに言語を操る能力を手に入れたのではないかという。言語はほかの仲間と経験を分かち合って、狩りなどで協力するために生まれたものと考えられる(言語をもった集団が生き延びるのに有利だった)。
言語は詳細をそのまま伝えるものではなく、ある概念のもとで情報を縮約するものである。ヒトでは言語能力が邪魔して、チンパンジーのような瞬間記憶能力が失われたのかもしれない。これに関連して次のような実験がある。
ヒトの被験者のグループに銀行強盗のビデオを見せ、その後20分間、関係のないことをさせた。次に、ひとつのグループは5分間、強盗の顔で思い出せるかぎりの特徴を言葉で書き出させた。一方別のグループはその間、関係のないことを続けた。最後に被験者全員にいくつかの顔写真のなかから強盗の写真を選ばせた。その結果、強盗の顔写真を正しく見分けられたのは、関係のないことを続けたグループで2/3だったのに対して、顔の特徴を言葉で書き出していたグループでは1/3に過ぎなかった。どうも、言葉は画像が意識にのぼるのを邪魔しているようなのだ。

◎ヒトの多様な脳

自分自身が自閉症で、動物の感じ方に即して家畜を管理する方法を開発したアメリカ・コロラド州立大学のテンプル・グランディンは、「自閉症の人は、言葉ではなく絵で考える」と述べている。また、「普通の人は注意を向けていなければ、どんな対象も見たと意識しない。予測しているものを見るようにつくられていて、見たことのないものを見ると予測するのは困難だ。動物と自閉症の人は普通の人と違って、何かを見るために注意をはらう必要はない」ともいう。
ダーウィンは、1868年に出版した「飼育栽培下における動植物の変異」のなかの「遺伝」と題した第12章で、彼自身と彼の娘の一人が、現在では一部の自閉症の人に特有の行動と考えられる手をひらひらさせる(フラッピングという)癖があることを告白している。岡南さんによると、ダーウィンはビーグル号の航海中に立ち寄った各地で観察した動物の動きをまるでビデオで記録したように記憶していて、何年もあとになってからこれを再生して生き生きとした文章にできたという。自閉症の人は、多くの細かな観察からあるパターンや法則を発見する能力に優れている。
ヒトの自閉症には様々なタイプのものが含まれ、そのため自閉症スペクトラムと呼ばれている。スペクトラムとは、軽度から重度までの重症度の勾配を意味するだけではなく、個別的に様々な差異があり、多次元的だということである。そのなかにサヴァン症候群というものがある。サヴァン症候群にも様々なものが含まれるが、そのなかには、ジル・プライスのように8歳頃からの自分の日々の生活の詳細を、まるで一部始終をビデオで記録してきたかのようにすべて記憶している人もいる。また、一度ぱっと見ただけの風景を、あとでその記憶をもとにして細部まで忠実に描くことができる人もいる。これは眼に映った対象を写真のように映像として記憶するもので、写真記憶という。先に紹介したチンパンジーの瞬間記憶能力もこの写真記憶に近いものだと思われる。
普通の人は知覚から得た生の情報ではなく、それを前頭葉で編集した概要を見たり聞いたりし、記憶されるのもそのような概要だけである。知覚した些細なことすべてに気をとられていたら混乱してしまう。従って、ジル・プライスのようになにもかも記憶し続ける「忘れられない脳」をもった人は、彼女が「記憶の檻に閉じ込められた私」と表現しているように、非常に苦しむことになる。彼女の記憶の特徴は、どんなことでも優劣をつけずにすべて保存していることだという。

つづく


*もっと「進化」を詳しく知りたい人に最適の本
長谷川政美著『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史』 (ベレ出版)。 本書は当サイトで連載していた「僕たちの祖先をめぐる15億年の旅」を加筆修正および系統樹図を全て作り直して一冊にまとめたものです。カラー図版600点掲載。

扉絵:小田 隆
ブックデザイン:坂野 徹

*もっと「進化」を詳しく知りたい人に最適の本
長谷川政美著系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史 (BERET SCIENCE) (ベレ出版)。 本書は当サイトで連載していた「僕たちの祖先をめぐる15億年の旅」を加筆修正および系統樹図を全て作り直して一冊にまとめたものです。カラー図版600点掲載。

扉絵:小田 隆
ブックデザイン:坂野 徹

【バックナンバー】
第1話 「自然の階段」から「生命の樹」へ
第2話 リンネの階層分類
第3話 キュヴィエの新しい分類
第4話 共通祖先からの進化
第5話 偶然性の重視
第6話 自然選択の現場 ーガラパゴスフィンチ
第7話 なぜ多様な種が進化したか?
第8話 分子系統学の登場
第9話 ペンギンはなぜ北極にいないか
第10話 ウォーレスのマレー諸島探検
第11話 ペンギンの分布
第12話 ホッキョクグマの分布
第13話 ウェゲナーの大陸移動説
第14話 大陸移動説の拒絶と受容
第15話 大陸分断による種分化と
幸運に恵まれた移住

第16話 海を越えた移住
第17話 古顎類の進化
第18話 南極大陸を中心とした走鳥類の進化
第19話 進化発生生物学エボデボの登場
第20話 繰り返し要素の個性化と多様な形態の進化
第21話 表現型の可塑性
第22話 ジャンクDNA
第23話 少ない遺伝子
第24話 ヘモグロビンにおける調節
第25話 エピジェネティックス
第26話 獲得形質は遺伝するか?
第27話 美しいオス
第28話 性選択
第29話 生命の誕生
第30話 すべての生き物の共通祖先LUCA
第31話 古細菌と真核生物を結ぶ失われた鎖
第32話 真核生物の起源についての「水素仮説」
第33話 地球生物の2大分類群
第34話 細胞核の起源
第35話 絶滅
第36話 凍りついた地球
第37話 全球凍結後の生物進化
第38話 カンブリア爆発
第39話 生命の陸上への進出
第40話 哺乳類型爬虫類の絶滅と恐竜の台頭
第41話 多様な菌類の進化
第42話 分解者を食べる変形菌の進化
第43話 中生代の世界とその終焉
第44話 非鳥恐竜の衰退
第45話 哺乳類の台頭
第46話 小さな生物が担う多様性
第47話 鳥類の台頭と翼竜の衰退
第48話 大量絶滅からの再出発
第49話 ホモ・サピエンスの進化