EVOLUTION

 

知の巨人アリストテレス、分類学の父リンネ、

古生物学の創始者キュヴィエと連なる、自然に対する知識を体系化する博物学は、

19世紀半ばにダーウィンとウォーレスの進化論に到達した。

事実に基づき、歴代の学者たちが打ち立てた仮説の数々を丁寧に読み解きながら、

分子系統学の登場で新たな時代を迎えた“進化学の現在”までを追う。



著者プロフィール
長谷川政美(はせがわ まさみ)

1944年生まれ。進化生物学者。統計数理研究所名誉教授。総合研究大学院大学名誉教授。理学博士(東京大学)。著書に『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史』(ベレ出版)『分子系統学』(岸野洋久氏との共著)『DNAに刻まれたヒトの歴史』(共に岩波書店)『新図説 動物の起源と進化―書きかえられた系統樹』(八坂書房)など多数。1993年に日本科学読物賞、1999年に日本遺伝学会木原賞、2005年に日本進化学会賞・木村資生記念学術賞など受賞歴多数。進化が一目でわかる「系統樹マンダラ」シリーズ・ポスターは全編監修を務める。

 

進化の歴史

ー時間と空間が織りなす生き物のタペストリー


第14話

漂流する大陸と生物の進化

<大陸移動説の拒絶と受容>

文と写真 長谷川政美

◎ウェゲナーの奮闘

ウェゲナーは、ヨーロッパとグリーンランドから同じ恒星を観察して、この2つの場所の距離が離れつつあることを確かめようとした。これが確かめられたという前回(第13話)の文章は、ウェゲナーの間違いだったと言われている。
彼は移動速度を年間30mと見積もっていたが、実際の速度は年間数cm程度で、当時の技術では検出できないレベルのものであった。この速度はヒトの一生の間にその背丈程度の長さを移動するということである。ヒトの一生にとってこれは非常に遅い速度だが、地質学的スケールでみると結構早いともいえる。
ウェゲナーが速度を早めに見積もった一因に、彼が用いた地質の絶対年代が若すぎたということがある。その頃すでに放射性同位元素による年代測定が始まっていたが、まだあまり正確なものではなかった。しかし、彼はあらゆる手段を駆使して大陸移動説を確かめようと奮闘した。彼はそのグリーンランドの地で命を落とした。

◎大陸移動説の拒絶

ウェゲナーの奮闘と彼が示した多方面からの証拠にもかかわらず、なぜ大陸移動説は受け入れられなかったのだろうか。その原因は大陸を動かすような力がその当時知られていなかったからだと言われている。
また、ウェゲナーのバックグラウンドは気象学であり、地質学や古生物学の正式な教育を受けたことがなかったということも、彼にとって不利に働いたようだ。ウェゲナーは多くの客観的な証拠を提示したにもかかわらず、地質学や古生物学の権威者からは、素人のいい加減な説と見なされたのである。
『大陸と海洋の起源』の冒頭に、ウェゲナーは、「1910年に世界地図を眺めていて、大西洋を挟むアフリカの西側と南アメリカの東側とで海岸線のかたちが非常によく似ていることに深く印象づけられた」と書いている。このことは、イギリスの哲学者フランシス・ベーコン(1561—1626)がすでに気づいており、ウェゲナーがはじめて気がついたものではない。
1569年にはゲラルドゥス・メルカトルによって世界地図が作成されており、ベーコンは、向かい合った2大陸の海岸線が偶然とは考えられないほど似ていることを指摘していた。しかし、彼はこの類似の理由を説明する仮説を示さなかった。
第2話で登場したアレクサンダー・フォン・フンボルトも、アフリカと南アメリカの間で植物相が似ていることから、2つの大陸が昔はつながっていた可能性に言及している。
そのほかにも大陸移動説の萌芽的な説がいくつか現れるが、ベーコンからおよそ300年後、地球物理学、地質学、測地学、古生物学、生物地理学、古気象学など多くの学問分野を統合して大陸移動説という壮大な体系にまとめ上げたのが、ウェゲナーであった。

◎大陸移動にニュートン出でよ

現在のプレートテクトニクス理論では、大陸を動かす力としてマントル対流が考えられているが、実はウェゲナーは、『大陸と海洋の起源』の第4版、第9章「移動の原動力」のなかでそれに近い可能性にも言及しているのだ。
彼は、「巨大な大陸ブロックの分裂が、このようなシマ(ウェゲナーの時代には、マントル上部はシマと呼ばれた)内での対流によって生じたとしても間違いではない」と述べている。ただし、同じ章の冒頭で「大陸移動説におけるニュートンはまだ現れていない」と述べて、自分の説がまだ未成熟であり、今後の発展に期待した遺書のようなものになっている。
「大陸移動のニュートン」という言い方は、1812年にジョルジュ・キュヴィエが「博物学にもいつの日か自分たちのニュートンを得ないはずはなかろう」と述べたことに倣ったものと思われる。キュヴィエの「博物学にニュートン出でよ」という言葉は、ダーウィンとウォーレスによって実現された。
19世紀のダーウィンやウォーレスの時代には、大陸が水平方向に移動することはないと考えられた。ダーウィンがビーグル号でチリを訪れた際、彼はマグニチュード8.5と推定される大地震とそれに伴う大津波に遭遇した。町全体が一瞬にして廃墟と化したのだ。これはほとんど地震のないイギリスで育った彼にとっては、貴重な体験であった。彼は、地震後に島が2.5メートル隆起していたという観測も行っている。このように地面が垂直方向に変化することは知られていたが、水平方向に移動することは思いもよらなかった。

◎幸運に恵まれた移住

ガラパゴスのように大陸から遠く海で隔てられた島に、大陸のものと似た生物が分布することについて、ダーウィンは次のように考えた。
一見移住が不可能な島に生き物が分布することは、創造論者によれば、「創造主が造られた」という説明で済んでしまう。このことを合理的に説明するために、彼はさまざまな実験も行なっている。
植物の種子が海水に浮かぶことを確かめた上で、何週間か海水に浸しておいた種子が発芽するかどうかの実験を行ない、海水に浸されていた種子でも発芽能力があることを示した。また植物の種子や淡水性の貝などが渡りをするカモの水かきにくっついた泥と一緒に運ばれる可能性についても論じ、さらに鳥が食べた種子が糞として排泄されたあとで発芽するという実験まで行なっている。
ダーウィンの行った実験は限られたものではあったが、彼は何とかして遠く海で隔てられた地域で共通の生き物が見いだされることを「幸運に恵まれた移住」で説明しようとした。短い時間ではあまり成功する可能性が高くないことでも、長い時間をかけて繰り返し挑戦すれば(実際には生物が自分自身の意思で挑戦するのでなく、やむなく漂流する運命に置かれるのであるが)、いつかは移住に成功することがあるだろうと考えたのだ。
ダーウィンの時代にも、このようなことを「陸橋」で説明するという考えはあった。海水準が下がることによって海底が陸になって、生き物の移住が可能になるというものである。ダーウィンもそのような可能性は認めたが、生物の分布以外に陸橋が存在したことを支持する独立した証拠がある場合を除いて、安易にそのような考えに頼ることを戒めている。
ウォーレスも、最初は陸橋の考えに傾いていたが、次第にダーウィンの「幸運に恵まれた移住」を受け入れるようになった。

◎大陸移動説の受容

ウェゲナーの死からおよそ10年後の1940年代、大陸移動説に強く反対したことで有名なのが古生物学者のジョージ・シンプソンであった。彼はロナルド・フィッシャー、J.B.S. ホールデン、セウォール・ライトらによって発展させられた理論集団遺伝学を基礎にダーウィンとウォーレスの自然選択説を復活させた「進化の総合学説」の建設に貢献した一人であった。
シンプソンは、進化は膨大な時間をかけて起るものであるから、時間さえかければ、一見ありそうもないと思われるダーウィンのいわゆる「幸運に恵まれた移住」が起こり得ると主張し、大陸移動説を退けたのである。例えば流木に乗った動物が大洋を越えて漂着する確率がたとえ1年で100万分の1でしかなかったとしても、500万年の間には5回漂着に成功しても不思議ではないという。
しかしながら、1950年代に入ると、新たな展開が生まれた。一つは古地磁気の測定であった。マグマが地上に噴出して冷えて火山岩ができるとき、そのなかの鉄やチタンなど磁性鉱物は、当時の地球磁場の方向に帯電する。このように火山岩に記録されている磁気を調べることによって、生成時の磁極の位置や火山岩のあった場所の緯度を推定する学問分野は、古地磁気学と呼ばれる。
イギリスのケイス・ランコーンらは1956年に、北アメリカとヨーロッパの古生代から新生代第三紀にかけてできた岩石の古地磁気を調べた結果、まさに大陸移動の証拠をつかんだのだ。
彼らの測定によると新生代第三紀の磁極の位置は、北アメリカとヨーロッパでの測定から推定された磁極の位置は一致するが、古い時代になると2つの磁極の位置は離れていった。このことは、ウェゲナーが考えたように古生代には北アメリカとヨーロッパがつながっていたが、その後次第に離れていったとすればきれいに説明できるという。実はランコーンらのデータの解釈には問題があったが、この研究が大陸移動説復活の大きなきっかけになった。
もう一つの展開は、アメリカのハリー・ヘスやロバート・ディーツによって1960年代はじめに提唱された海洋底拡大説であった。大西洋を縦断して中央部が海底山脈を形成していて、マグマの噴出口が連なっている。これは中央海嶺(かいれい)と呼ばれるが、噴出口から出たマグマが中央海嶺の両側に広がっていて、中央海嶺から遠く外側にある岩石ほど生成年代が古かったのだ。海嶺ではマントルから湧き出たマグマから新たに海洋底が生成されているので、海嶺に近いほど新しいのだ。
この事実もまた、ウェゲナーが考えたようにアフリカと北アメリカが次第に離れていき、大西洋が広がりつつあることを証拠立てていると考えられた。中央海嶺は2つの大陸を引き裂きつつある割れ目なのだ。
ウェゲナーは大陸地殻と海洋地殻の比重の違いによって図13-4の頻度分布で見られる2つの山(二峰性)を説明しようとした。図13-5では大陸地殻と海洋地殻が同じ厚さになっているが、実際には海洋地殻のほうが薄くなっている。

図13-4 地球表面の高さの頻度分布に見られる2つの山(ウェゲナー、 1929)。上の山は、陸地の多くがおよそ100メートルのところにあり、下の山は海洋底の多くが水深およそ4700メートルにあることを示している(再掲)。

図13-5 大陸と海洋底に段差ができる原理(再掲)。
従って海洋地殻が薄いこともまた、二峰性の一因になっている。さらに海洋底拡大説によれば、海嶺から出たマグマが両側に広がっていき、海洋底を形成するが、次第に海嶺から離れるように移動して、最終的には海溝から地球内部に沈み込んでしまう。従って大陸の地層のようにどんどん堆積し続けることがないために、海洋地殻は薄く、あまり古い岩石を含まない。
その後1960年代の後半になって、地球の表面を覆う厚さ100キロメートル程度の十数枚の剛体の板(プレート)の運動によって、地震、火山、造山運動などを説明するプレートテクトニクス理論が現れた。大陸を動かす力の実在が明らかになり、大陸移動説はようやく受け入れられるようになったのである。
このような経緯を経て、現在では地球上の大陸が時代を追って図14-1のように移動してきたと考えられている。

図14-1 古地図。オークル色はプレート、赤線は現在の海岸線を示す。(a)1億4500万年前。(b)1億1000万年前。(c)8500万年前。(d)3500万年前。(e)現在。
http://www.odsn.de/odsn/services/paleomap/paleomap.html

◎大陸移動の痕跡

大陸の移動は、ヒトの一生の間にその背丈程度の速度でしかないので、それを直接観測することは簡単ではないが、大陸が移動している痕跡は地球上のいろいろなところで見られる。
世界最高峰のエベレスト(チョモランマ)の山頂に三葉虫やウミユリの化石が見つかることから、ヒマラヤ山脈はかつて海の底にあったことが分かるのだ。
かつて、マダガスカルとつながっていたインドが、8500万年前ほどから分かれて北上し(図14-1c)、その後ユーラシア大陸とつながった後その下にもぐり込み、その結果としてヒマラヤ山脈やチベット高原(図14-2)ができた。この造山運動は現在も進行中である。これにより、周辺の気候は大幅に変わった。ヒマラヤ山脈の形成は、インド洋からの湿気を運ぶモンスーンによってその南側に大量の雨をもたらす一方、北側では海からの水分が届かなくなり乾燥化が進んだ。

図14-2 チベット高原。標高およそ4000メートルの高原にさらに高い山々が連なっている。インド・オーストラリアプレートがユーラシアプレートの下にもぐり込んだ結果、ヒマラヤ山脈やチベット高原が形成された。ヒマラヤ山脈の北に位置するこちら側では乾燥化が進んだ。

つづく


*もっと「進化」を詳しく知りたい人に最適の本
長谷川政美著『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史』 (ベレ出版)。 本書は当サイトで連載していた「僕たちの祖先をめぐる15億年の旅」を加筆修正および系統樹図を全て作り直して一冊にまとめたものです。カラー図版600点掲載。

扉絵:小田 隆
ブックデザイン:坂野 徹

*もっと「進化」を詳しく知りたい人に最適の本
長谷川政美著系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史 (BERET SCIENCE) (ベレ出版)。 本書は当サイトで連載していた「僕たちの祖先をめぐる15億年の旅」を加筆修正および系統樹図を全て作り直して一冊にまとめたものです。カラー図版600点掲載。

扉絵:小田 隆
ブックデザイン:坂野 徹

【バックナンバー】
第1話 「自然の階段」から「生命の樹」へ
第2話 リンネの階層分類
第3話 キュヴィエの新しい分類
第4話 共通祖先からの進化
第5話 偶然性の重視
第6話 自然選択の現場 ーガラパゴスフィンチ
第7話 なぜ多様な種が進化したか?
第8話 分子系統学の登場
第9話 ペンギンはなぜ北極にいないか
第10話 ウォーレスのマレー諸島探検
第11話 ペンギンの分布
第12話 ホッキョクグマの分布
第13話 ウェゲナーの大陸移動説