Creature

 

870万種ともいわれる地球上の多様な生き物たち。

まだ私たちはそのごく一部しか知らないが、

実に多くのことが明らかにされてきてもいる。

進化生物学者である著者が、

世界中で長年撮りためた貴重な写真と文章で

思いのままに「生き物」を語る。



著者プロフィール
長谷川政美(はせがわ まさみ)

1944年生まれ。進化生物学者。統計数理研究所名誉教授。総合研究大学院大学名誉教授。理学博士(東京大学)。著書に『分子系統学』(岸野洋久氏との共著)『DNAに刻まれたヒトの歴史』(共に岩波書店)、『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史』(ベレ出版)、『世界でいちばん美しい進化の教室』(監修、三才ブックス)、『共生微生物からみた新しい進化学』(海鳴社)、『進化38億年の偶然と必然』(国書刊行会)など多数。進化に関する論文多数。1993年に日本科学読物賞、1999年に日本遺伝学会木原賞、2005年に日本進化学会賞・木村資生記念学術賞など受賞歴多数。全編監修を務める「系統樹マンダラ」シリーズ・ポスターの制作チームが2020年度日本進化学会・教育啓発賞、2021年度日本動物学会・動物学教育賞を受賞。

 

進化の目で見る生き物たち


第29話

思い出に残る生き物たち

文と写真 長谷川政美


この連載もいよいよ次回で終わりになるが、今回は私自身の思い出に残る生き物たちを紹介することにする。前回紹介したヨウスコウカワイルカのチチは、絶滅してしまった種のなかで知られている限りでは最後の個体ということで、とりわけ思い出に残るものであるが、今回はそのほかの生き物を紹介する。

◎チルー

チルー(Pantholops hodgsonii)は別名「チベットアンテロープ」とも呼ばれる。アンテロープはウシ科の中でウシ族やヤギ亜科に分類されないものの総称として使われることが多いが、チルーはヤギ亜科に属する。外見的にアフリカのアンテロープに似ていることからつけられたのである。
20世紀初頭にチベットを訪れたイギリスの探検家セシル・ローリング(1870~1917)は、チルーの群れに遭遇した場面を綴っている(1)。
母と子の大きな群れで、草を食べながらゆっくりと移動していたが、広大なチベット高原の見える範囲に途切れることなくその群れは続いていた。その時一度に見えたチルーの個体数は15,000~20,000頭を下らないだろうという。チベットでの森林限界は標高およそ4,000mあたりだが、チルーが生息するのは主に森林限界を超えた木が一本も生えないところである。
このような過酷に見えるチベットの環境がこれだけのたくさんの動物を養えるのである。
第16話で、森林ではリグニンを多く含む樹木の分解が遅いために物質循環の速度が低く、一方サバンナの植物の主体である草にはリグニンはあまり含まれないために、サバンナの生態系は膨大な数の哺乳類を養うことができるという話をした。チベットの草原もこの意味ではアフリカのサバンナに似ているのである。
セシル・ローリングの綴った場面を頭に描いていた私は、いつかこの動物に出会いたいものだと思っていた。ようやく2006年にその機会がやってきた。この年に中国青海省のココシリ自然保護区を訪れた際のことである。季節は6月だというのにその日は雪が降っていて、少し積もっていた。われわれのいた少し上のほうで、チルーのメスの群れが移動している場面に遭遇したのである(図14-7)。
一年の大半の期間、チルーのオスとメスは別々に暮らす。図29-1は、オスのチルーが単独でいた場面である。図29-2は、チルーのオスの幼獣であるが、この個体に関しては悲しい逸話がある(2)。

図14-7(再掲載).チルー(Pantholops hodgsoni;鯨偶蹄目・ウシ科・ヤギ亜科)のメスの群れ。2006年6月19日、中国・青海省・ココシリ自然保護区にて。標高およそ5000メートル。標高の高いこのあたりでは、6月でもこのように雪が積もることがある。画像をクリックすると拡大表示されます。

図29-1.チルーのオス(画面左下)。オスは長くまっすぐに伸びた特異な角をもつ。2013年9月14日、中国青海省ココシリにて。画像をクリックすると拡大表示されます。

図29-2.チルーのオスの幼獣。中国青海省ココシリ自然保護区の野生動物保護センター(海抜およそ4600m、2006年6月19日)。このような姿勢はオオカミなどの天敵に見つかりにくくするのに有効と考えられる。

実はこの写真の幼獣は、母親が密猟者によって殺されたために、野生動物保護センターに保護されていたのである。過酷な環境に棲むチルーの上質な毛皮は高値で取引されるために密猟が絶えないのである。この施設で成長したあと、野生に放されたが、ヒトに育てられたためチルー集団内のルールが身についていなかったものと思われる。オス同士の闘いのルールが分からず、別のオスの角に刺されて死んだという。保護された動物を野生に復帰させることは、簡単ではないのだ。
セシル・ローリングの紀行記には、次のような記述もある:チルーは暖かな日差しを嫌い、晴れた日には近くに水があれば、凍るような水の中で何時間もからだを冷やす。チルーが過ごすチベット高原の冬の寒さは過酷だが、彼らはそれに耐えられるし、ローリングの目には彼らは過酷な環境を好んでいるように見えたのだ。
チベットの首都ラサに小さな動物園があるが、そこにはチルーは飼われていない。本当かどうか分からないが、チルーにとってラサは標高が低すぎるのだという。ちなみにラサの標高はおよそ3,700mである。ほぼ富士山の頂上に相当し、高山病に弱い私は行くたびに最初の1日は休養が必要であるが、チルーはこれよりも標高のはるかに高い所に生息しているのだ。
当連載の第14話で、哺乳類は鳥類にくらべて低酸素の環境に弱いという話をした。恐竜全盛の時代が始まる中生代初期は地球上の酸素濃度が極端に低くなり、われわれ哺乳類の祖先にとっては過酷な時代であった。鳥類の祖先の恐竜は、気嚢という独特の呼吸法を進化させ、哺乳類の祖先を圧倒する存在になったのである。
図29-3はチルーの群れに遭遇した日に、その近くで見かけたインドガンの親子である。

29-3.インドガン(Anser indicus)の親子。中国青海省ココシリ自然保護区。

インドガンは春から夏にかけてチベット高原で子育てを行ったあと、秋にはヒマラヤ山脈の上空の標高1万メートルあたりを飛んでインドに渡って冬を越す。標高1万メートルでの酸素濃度は地表の28%しかなく、哺乳類は生存できない。このような渡りを可能にしているのが恐竜の時代に進化させた気嚢による効率的な呼吸である。
恐竜は優れた呼吸法を進化させたおかげで、哺乳類を圧倒して中生代の繁栄を謳歌できたが、哺乳類がある程度の低酸素濃度環境に適応できないわけではない。チベット高原に生息するチルー、チベットガゼル、ヤクなどの哺乳類はそれぞれ低酸素に適応してきたのである。
ただし、生死をかけたギリギリの競争になると、中生代初期には効率的な呼吸法を進化させた恐竜が哺乳類よりも優位に立ったということである。
現在のチルーにとっての最大の天敵は高価な毛皮目当てのヒトによる密猟であるが、それ以外の天敵はオオカミくらいだと思われる。オオカミは標高5,300mくらいまで上るので(3)、チルーにとっては無視できない天敵であろう。ただし、木の生えない見晴らしのよい草原でたいてい群れを作って暮らすチルーにとっては、被害にあっても最小限にとどまる。また低酸素に適応したチルーがもっと標高の高い所に逃げ込めば助かるであろう。

◎スマトラオランウータン

私はそれまで野生の大型類人猿に出会ったことがなかったが、2010年、インドネシア・スマトラ島北部のグヌン・ルセル国立公園ではじめてその機会が訪れた。その直前、山道で転んで眼鏡を壊してしまっていた。「オランウータンだ!」という案内の人の声でカメラを向けて夢中で何枚か撮ったうちの1枚が図29-4である。

図29-4.スマトラオランウータン(Pongo abelii)の母子(2010年2月7日、スマトラ島グヌン・ルセル国立公園にて)。

眼鏡をかけていなかったので、その時はぼんやりとしか見えなかったが、自動焦点カメラのおかげでなんとか撮影することができたものである。この母子は、スマトラオランウータン(Pongo abelii)である。
現生のオランウータンはこのスマトラのものと、ボルネオ島のボルネオオランウータン(Pongo pygmaeus)の2種に分類されていた。ところがその後、2017年になって、この森のわずか100km南の同じ北スマトラで新種のオランウータンが発見された(4)。遺伝的にも形態的にも、これまでに知られていた種とははっきりと異なるのである。大型類人猿の新種が発見されたということは、1929年のボノボ(かつてピグミーチンパンジーと呼ばれた)発見以来のことであり、この新種は「タパヌリオランウータン (Pongo tapanuliensis)」と名づけられた。
2010年に訪れてスマトラオランウータンの母子に出会ったグヌン・ルセル国立公園からわずか100kmしか離れていない場所で新種が見つかったということを知り、あのときにここにも行っておけばよかったという思いであった。たとえ遭遇できたとしても、私には新種だと気付くことはできなかったであろうが。
タパヌリオランウータンは、ミトコンドリア系統樹では、同じスマトラのスマトラオランウータンよりもボルネオオランウータンに近縁であるが、Y染色体系統樹ではスマトラオランウータンの内部系統に入ってしまう(4)。私が出会ったスマトラオランウータンとタパヌリオランウータンの生息域は、トバ湖(図29-5)という大きな湖で隔てられている。

図29-5.トバ湖(2010年2月6日)。スマトラ島北部にある世界最大のカルデラ湖。長さ100km、幅は約30km、面積は1,000km2におよぶ。

このあたりではおよそ120万年前からたびたび火山活動があったが、74,000年前の最新の巨大噴火は特別大きかった。大量のマグマが地下から噴出した結果地盤が沈下し、トバ湖を含むカルデラができた。この噴火でユーラシア各地に大量の火山灰が降り注ぎ、その頃アフリカからユーラシアに進出していた現生人類ホモ・サピエンスの拡散に一時的にブレーキをかけたといわれている。
以上のことから、オランウータン3種の進化に関して、次のようなシナリオが考えられる(図29-6)。

図29-6.オランウータン3種の系統関係。画像はすべてオス。タパヌリオランウータンの画像はリンク先の画像を使わせていただいた。

彼らの祖先はアジア大陸のマレー半島あたりに生息していたが、その一部がスマトラ島に進出した。それがおよそ340万年前に現在のトバ湖をはさんで北と南の集団に分かれた。その当時は現在のようなトバ湖は存在していなかったが、移動にとってなんらかの障壁になるものがあったのだろう。およそ670万年前に南の集団の一部がボルネオ島に進出した。この頃寒冷化が進み、海面が低下して移住しやすい環境が整っていたと思われる。この寒冷化は世界的規模のものであり、アフリカでわれわれヒトの祖先がチンパンジーの祖先と分かれて、独自の進化の道を歩み始めたのもその頃であった。アフリカで森林が後退し、サバンナが広がり始めた頃なのである。
現在のトバ湖をはさんだ北と南の集団はお互いに完全に隔離されていたわけではなく、時々は遺伝的な交流が続いていた。ただし、オランウータンの場合は移動するのはオスだけであり、メスは生まれた地域に留まる。そのために、オスからしか子供に伝わらないY染色体の系統樹では、南のタパヌリオランウータンはボルネオオランウータンによりも北のスマトラオランウータンに近縁になっている。ただし、74,000年前の巨大噴火以降、この交流は途絶えてしまった。
タパヌリオランウータンはバタントルという標高の高い森林地帯に生息していて、個体数はわずか800頭で絶滅が危惧される。最近この生息域である国の援助で大規模なダム建設の計画が進められており、大きな問題になっている(5)。

つづく


【引用文献】
1. Rawling, C.G. (1905) “The Great Plateau; Being an Account of Exploration in Central Tibet, 1903, and of the Gartok Expedit”. Wentworth Press(2019復刻版).
2. 長谷川政美(2011)『新図説動物の起源と進化』八坂書房.
3. Schaller, G.B. (1998) “Wildlife of the Tibetan Steppe”. Univ. Chicago Press.
4. Nater, A., Mattle-Greminger, M.P., Nurcahyo, A., et al. (2017) Morphometric, behavioral, and genomic evidence for a new orangutan species. Curr. Biol. 27, 3487–3498.
5. https://www.bbc.com/japanese/47465093



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イラスト:ちえちひろ
編集:畠山泰英(科学バー/キウイラボ)


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編集:畠山泰英(科学バー/キウイラボ)





<バックナンバー>
第1話「コウモリの自然史」
第2話「特異なコウモリ『アブラコウモリ』」
第3話「海流と生き物の分布」
第4話「海を越えた動物の移住」
第5話「ヒグマの自然史」
第6話「クマ科の進化」
第7話「動物の長距離移動」
第8話「スズメ目の進化」
第9話「イヌの起源」
第10話「ウマの起源」
第11話「ネコの起源」
第12話「動物のからだの模様の形成」
第13話「光を求めて」
第14話「酸素濃度の極端な増減」
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第16話「木材を食べる動物たち」
第17話「物質循環をあやつる小さな生き物」
第18話「退化と中立進化」
第19話「目的なき性選択」
第20話「鳥が飛べるようになったのは性選択のため?」
第21話「音楽の起源」
第22話「節足動物の進化」
第23話「オスとメスの出会い」
第24話「無慈悲なハチと慈悲深いハチ」
第25話「チョウとガの進化」
第26話「遺存種」
第27話「植物の遺存種」
第28話「クジラの進化」
第29話「思い出に残る生き物たち」
第30話「ネアンデルタール人との出会いに思いを馳せる」