いま世界に拡がるウイルスは、
リアルタイムで追跡できるほど進化が速い。ウイルスはいわゆる生物ではないが、
私たちヒトを含む生物と共進化する存在だ。
世界的な分子系統学者である著者が、
躍動感みなぎる“進化の舞台”へ読者を誘う。
著者プロフィール
長谷川政美(はせがわ まさみ)
1944年生まれ。進化生物学者。統計数理研究所名誉教授。総合研究大学院大学名誉教授。理学博士(東京大学)。著書に『分子系統学』(岸野洋久氏との共著)『DNAに刻まれたヒトの歴史』(共に岩波書店)、『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史』(ベレ出版)、『世界でいちばん美しい進化の教室』(監修、三才ブックス)、『共生微生物からみた新しい進化学』(海鳴社)、『進化38億年の偶然と必然』(国書刊行会)など多数。1993年に日本科学読物賞、1999年に日本遺伝学会木原賞、2005年に日本進化学会賞・木村資生記念学術賞など受賞歴多数。全編監修を務める「系統樹マンダラ」シリーズ・ポスターの制作チームが2020年度日本進化学会・教育啓発賞を受賞。
第一次世界大戦末期の1918年から始まり翌年まで世界中で猛威を振るったスペイン風邪と呼ばれるインフルエンザは、5千万人もの命を奪ったという。これは大戦の戦死者の数を大きく上回るものであった。
スペイン風邪ウイルスは極めて致死性が高いものであったが、間もなく終息した。しかし、その後もインフルエンザウイルスは変異を重ね、新しいタイプのインフルエンザウイルスが次々に出現してわれわれを脅かしている。
インフルエンザには毎年のように現れる季節性インフルエンザとスペイン風邪のようにパンデミックを引き起こすものとがある。季節性インフルエンザの致死率は低いが、それでも毎年人口の5~15%が感染するので、世界中では1年でおよそ50万人が亡くなっている。
スペイン風邪の時代には、この病気の原因となるウイルスを解析する技術がなかった。しかもこの病気は地球上から消えていたので、1997年まではその実態が不明のままであった。この年、アメリカ陸軍病理学研究所のジェフリー・タウベンバーガーらは、スペイン風邪の犠牲者の肺の検体から、このウイルスのRNAゲノム配列の一部を決定することに成功した(1)。この研究により、スペイン風邪ウイルスは現在も季節性インフルエンザの病原体として残っているA型H1N1亜型インフルエンザウイルスと同じゲノム構造をもつウイルスであることが明らかになった。スペイン風邪は消えたが、病原ウイルスは致死性の低い季節性インフルエンザウイルスとして残っていたのである。
その後タウベンバーガーらは、アラスカの永久凍土に埋葬されたスペイン風邪で亡くなったひとの遺体からウイルスを取り出し、このインフルエンザウイルスのゲノムの全塩基配列を明らかにした。こうしてスペイン風邪ウイルスの実体が明らかになったが、このウイルスがなぜ、史上最悪のインフルエンザと呼ばれるほど病原性の強いものだったかについては、依然として謎が残った。東京大学の河岡義裕らのグループは、このウイルスのゲノム配列データをもとにして、厳重に管理された実験施設の中で、このウイルスを人工合成し復元することに成功した(2)。
彼らはこの復元したウイルスをカニクイザルに接種したところ、伝えられていたように極めて強力な病原性を示したのだ。このような研究によって、このウイルスの遺伝子のどのような特徴が、強力な病原性に結びついているのかが次第に明らかになっている(3)。
インフルエンザウイルスを包む外被膜からは、スパイクたんぱく質という突起が出ている。このスパイクたんぱく質は、ヘマグルチニン(HA)とノイラミニダーゼ(NA)の2種類から成る(図18-1)。これがインフルエンザウイルスの抗原性を決める上で重要である。
A型インフルエンザウイルスは、HAとNAの違いによって亜型に分類される。ヒトで広く見られるのが、スペイン風邪ウイルスで代表されるH1N1亜型、1957年にパンデミックを引き起こしたアジア風邪ウイルスのH2N2亜型、それに1968年パンデミックを引き起こした香港風邪ウイルスのH3N2亜型の3種類である。それぞれの亜型のウイルスはパンデミックを引き起こしたあとも、症状の比較的軽い季節性インフルエンザウイルスとして生き残っているのである。
インフルエンザウイルスの遺伝情報は、たんぱく質ごとに8本の別々のRNAにコードされており、それぞれのRNA分節は独立に複製される。従って、異なるインフルエンザウイルスが同じ細胞に感染すると、そこでRNA分節の交換が起こり、8本のRNA分節の新しい組み合わせをもったウイルスが生まれることがあるのだ。異種間の生物の交雑に似た現象であるが、これを遺伝子再集合という。HAとNAもそれぞれ独立のRNA分節にコードされているので、遺伝子再集合によっていろいろな組み合わせの亜型が生まれるのだ。
またインフルエンザウイルスの突然変異率は非常に高く、ゲノムが複製を繰り返すたびに変異が蓄積するので、感染者一人の体内には、さまざまな変異をもったウイルスが混在している。そのために、抗体が産生されてウイルスが排除されそうになっても、それを逃れる新たな変異が生まれることがある。
インフルエンザウイルスの進化は、通常はたんぱく質遺伝子の突然変異によってアミノ酸が変化することによって起こる。これによってウイルスの抗原性が徐々に変化し、従来のワクチンが効きにくくなる。これが毎年季節性インフルエンザウイルスで起っていることである。一方、スペイン風邪ウイルスなど世界的なパンデミックを引き起こしたウイルスは、複数のウイルスが遺伝子再集合を起こすことによって生まれたと考えられる(3)。
スペイン風邪ウイルスと同じH1N1亜型インフルエンザウイルスが2009年にメキシコ、アメリカ合衆国から世界中に拡がり、パンデミックを引き起こした。このウイルスは家畜のブタ由来のものであるが、河岡義裕らのグループの研究により、図18-2に示したような由来をもつものであることが明らかになった(4)。
まず3種類のインフルエンザウイルスが登場する。1つは、スペイン風邪ウイルスがブタに感染してその後も受け継がれているもので、「古典的ブタウイルス」と呼ばれている。2つ目は北米の鳥がもっていたウイルスで、3つ目が1968年に香港風邪を引き起こしたヒトのH3N2亜型インフルエンザウイルスに由来する季節性インフルエンザウイルスである。
この3つのウイルスが、一頭のブタに三重に感染し、遺伝子再集合を起こしてRNA分節の新しい組み合わせをもった雑種ウイルスが生まれたのだ(図18-2:ステップ1)。この新しいウイルスは1997年頃から北米のブタに流行し始めた。最初はブタに重篤な症状を引き起こしたが、次第に軽い症状ですむようになった。
ヨーロッパでは、1979年に野生の水鳥からブタに拡がったH1N1亜型インフルエンザウイルスに由来するものがブタの間で流行していた。このウイルスが何らかの経路でアメリカ大陸に持ち込まれ、三重感染で生まれた先ほどの雑種ウイルスとの間で再度の遺伝子再集合を起こして、ヒトへの感染力を高めた新型インフルエンザウイルスが出現したと考えられるのである(図18-2:ステップ2)。
このような遺伝子再集合によって、通常の季節性インフルエンザで用いられてきたワクチンが効かないような抗原性が獲得されて、人類にとっての脅威になったのである。このウイルスの祖先には、香港風邪を引き起こしたヒトH3N2亜型インフルエンザウイルスも含まれるが、PB1遺伝子だけがその祖先のものを引き継いでいる。
2009年にパンデミックを引き起こしたヒトインフルエンザウイルスは、このように4種類のインフルエンザウイルスの雑種としてブタの体内で生み出されたものなのだ。
なぜブタがさまざまな種類のインフルエンザウイルスの間で遺伝子再集合を起こして雑種ウイルスを生み出すのに有効な装置として働いているのだろうか。河岡らによると、ブタの呼吸器上皮細胞に、ヒトとトリのインフルエンザウイルスの両方の受容体が存在するので、ブタが両方のウイルスに同時に感染する可能性があるからだという。
スペイン風邪ウイルスはヒトに対しては致死性の高い恐ろしいウイルスであったが、宿主を殺してしまうような高病原性をもつことは、寄生体にとっても望ましい戦略ではないはずである。自分自身も子孫を残せないからである。高病原性は寄生体がそれまでの宿主とは違う新しい宿主に感染してしまったときに現れることが多い。
アメリカのセント・ジュード小児研究病院のロバート・ウェブスターは、長年にわたって野生の鳥類からインフルエンザウイルスを採取してきた(5)。A型インフルエンザウイルスのヘマグルチニン(HA) とノイラミニダーゼ(NA)には、それぞれ16種類と9種類の亜型があるが、それらはすべてカモなどの水鳥でみつかっている。水鳥ではインフルエンザウイルスは主に腸管で増殖し、糞便とともに水中に排泄され、その水を飲むほかの鳥に伝搬される。
これらの水鳥は大きな集団で渡りをするものが多く、ウイルスにとっては集団内で感染を広げるとともに、世界中に分布を広げるにも恰好の宿主になっている(図18-3)。
しかも渡り鳥に感染しても、たいていの場合病気を引き起こすことはない。このように寄生体と安定した関係を築いている宿主を「自然宿主」というが、自然宿主に対しては病原性のない同じウイルスが、渡った先々でほかの動物に感染すると致死的なウイルスになり得るのだ。
インフルエンザウイルスに感染した水鳥の糞便1グラム中には1千万個ものウイルスが含まれているという。これが例えば長靴などに付いて農家のニワトリ小屋などに持ち込まれると、同じ鳥類であってもニワトリには病気を引き起こす。ニワトリの体内では抗体が産生され、ウイルスを排除しようとする。そのうち、抗体があっても生き残る変異ウイルスが生まれ、変異が続くうちにニワトリに対して重篤な症状を引き起こすウイルスが出現する。高病原性トリインフルエンザウイルスとして問題になっているH5N1ウイルスはこのようにして生まれたものと考えられる(6)。
インフルエンザウイルスは長い年月、カモなどの水鳥と共生しながら安定した関係を築いてきた。ニワトリが家禽化された歴史は古いが、現在のように膨大な数のニワトリを狭い所に閉じ込めて一緒に飼うようになったのは、20世紀のなかば以降のことである。このような大規模養鶏は、高病原性のトリインフルエンザウイルスを生み出す恰好の条件を整えたのである。これがカモとウイルスとの関係のように安定したものになるためには、長い年月が必要であろう。しかも、こうして次々と生まれてくる高病原性のトリインフルエンザウイルスの中からヒトにも感染するものが出現する危険性があるのだ。
この連載ではこれまでにも、たくさんの動物を密集した状態で飼育することが思いがけない感染症を引き起こしてきた例を見てきた(例えば第12話)。
ワクチンは病気発症の減少と軽症化、さらにウイルスの拡散を防ぐのに疑いなく有効である。しかし、インフルエンザウイルスの突然変異率が高いので、ワクチンが効かないウイルスがすぐに出現してしまう。インフルエンザウイルスのように突然変異率が非常に高いウイルスに対するワクチン接種は、長期的には変異ウイルスの出現と常在化を招くという考えもある(5)。
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イラスト:ちえちひろ
編集:畠山泰英(科学バー/キウイラボ)
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編集:畠山泰英(科学バー/キウイラボ)
【バックナンバー】
第1話 微生物で満ちあふれているヒト
第2話 新型コロナウイルス感染症を追う
第3話 COVID-19とネアンデルタール人の遺伝子
第4話 SARS-CoV-2の起源
第5話 SARS-CoV-2の今後
第6話 ヒト・コロナウイルスの進化
第7話 コロナウイルス科の進化
第8話 動物からはじまったウイルス感染症
第9話 ヒトと感染症の歴史
第10話 古代DNA解析とミイラの天然痘ウイルス
第11話 モルビリウイルス
第12話 種の壁を超えたモルビリウイルスの感染
第13話 コウモリ由来のウイルス感染症
第14話 なぜコウモリを宿主とするウイルスが多いのか
第15話 微生物叢が作るわが内なる小宇宙
第16話 宿主の行動を操るウイルス
第17話 アルボウイルスの正体