いま世界に拡がるウイルスは、
リアルタイムで追跡できるほど進化が速い。ウイルスはいわゆる生物ではないが、
私たちヒトを含む生物と共進化する存在だ。
世界的な分子系統学者である著者が、
躍動感みなぎる“進化の舞台”へ読者を誘う。
著者プロフィール
長谷川政美(はせがわ まさみ)
1944年生まれ。進化生物学者。統計数理研究所名誉教授。総合研究大学院大学名誉教授。理学博士(東京大学)。著書に『分子系統学』(岸野洋久氏との共著)『DNAに刻まれたヒトの歴史』(共に岩波書店)、『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史』(ベレ出版)、『世界でいちばん美しい進化の教室』(監修、三才ブックス)、『共生微生物からみた新しい進化学』(海鳴社)、『進化38億年の偶然と必然』(国書刊行会)など多数。1993年に日本科学読物賞、1999年に日本遺伝学会木原賞、2005年に日本進化学会賞・木村資生記念学術賞など受賞歴多数。全編監修を務める「系統樹マンダラ」シリーズ・ポスターの制作チームが2020年度日本進化学会・教育啓発賞を受賞。
今回はCOVID-19がこれからどのように推移していくかについて考えてみよう。そこにはたくさんの複雑な要因が関わってくる。
前回(第4話)、SARS-CoV-2の進化速度が系統によってあまり変わらないことを見たが、これはあくまでもそれぞれの系統に沿ってウイルスのゲノムが変化していく速度が違わないという意味である。
感染が多くのひとに拡がれば、それだけ多くのウイルスの系統が生み出されるということだから、全体としては多様な変異が生まれることになる。長期的にはさまざまな変異の中から、ウイルス自身にとってより適応した変異が正の自然選択の結果として残っていくであろう。
平均的には、感染力を高めつつも、宿主であるヒトに対して致死的なダメージを与えないような変異が残っていくことが予想されるかもしれない。なぜなら、ウイルスが生き残って子孫を広めていくためには、理屈の上ではそのような変異が有利だと思われるからである。しかし、単純にそのように言い切ることはできない。
この文章を書いている時点(2020年10月28日)ではまだ、SARS-CoV-2は世界中で猛威を振るい続けている。このパンデミックが今後どのように推移していくかは、ウイルス自身が今後どのように進化していくかに依存するが、それにはこのウイルスに対してヒトの社会および免疫系がどのように対応するかということが関わってくる。ヒトの側の対応の仕方が、ウイルスの進化の仕方を決める選択圧になる。
SARS-CoV-2に感染すると免疫ができるが、それがどのくらいの期間持続し、次に感染した時にどの程度有効に働くかについては、不明なことが多い。また免疫のでき方はひとによって異なり、感染しても無症状のひとには、あまり免疫ができないという(1)。一度罹ったひとが再感染することもある。
麻疹(はしか)は一度罹ると一生免疫が持続するといわれているが(実際には免疫は減衰するが、流行が時々起こるので無症状で再感染をして免疫の抗体価を上げるということを繰り返していると考えられる)、SARS-CoV-2の免疫がそんなに長く持続することはないと思われる。次回の連載で、風邪のコロナウイルスの話をするが、この場合は感染して治ってから一年以内に再び同じウイルスに感染することはしばしば見られる。SARS-CoV-2に関してはまだデータが少ないが、2002年に流行したSARSに関しては免疫が2年間ほど持続するという報告がある(2)。しかし、SARSはすぐに終息したので、この免疫が再感染を防ぐ上でどの程度有効なのかということは確かめられていない。
先に述べたように、ウイルスは多くのひとに感染すればそれだけ多様な変異が生じることになる。そのような変異の中には、それ以前のウイルスに対して獲得された免疫が効かなくなるようなものもあるだろう。第2話で詳しく触れたように、SARS-CoV-2の表面にはスパイクたんぱく質などさまざまなたんぱく質があり、抗体は表面たんぱく質を認識してそれと結合する。従って、抗体が認識する表面たんぱく質の構造が変化すれば、抗体がそれを認識できなくなり免疫が効かなくなる。
図5-1に抗体の構造の模式図を示した。ウイルスなどの抗原が体内に入ってくると抗体の抗原認識部位がウイルス表面の特徴を認識し、これと結合する。マクロファージなどの食細胞は抗体のFc受容体結合部位と結合できるFc受容体を持っており、この受容体を介して抗原と結合した抗体を認識して抗原を貪食する。こうして食細胞に飲み込まれた抗原は細胞内で破壊される。これが正常な免疫機構である。
化石燃料による大気汚染が、SARS-CoV-2による重症化リスクに関連しているという研究がある(13)。PM2.5と呼ばれる直径が2.5マイクロメートル(0.0025ミリメートル)以下の超微小粒子による大気汚染は、呼吸器疾患などさまざまな病気の原因になると考えられている。新しい研究ではPM2.5による大気汚染が、SARS-CoV-2が細胞に感染する際に利用する細胞表面の受容体であるアンジオテンシン変換酵素2(ACE2)を活性化し、このウイルスに感染しやすくしている可能性があるという。
同じ受容体を使ってコロナウイルスが感染する2002年~2003年のSARS-CoVの流行でも、大気汚染がひどい地域の住民の致死率は空気がきれいな地域の住民にくらべて高かったという。第3話でCOVID-19の重症化リスクを高めるとされるネアンデルタール人由来の遺伝子をもつひとの割合が多いヨーロッパ諸国にくらべて、それが少ない東アジアの日本や韓国では感染したひとの中で死亡したひとの割合、つまり致死率が低いという話をした。そこでは触れなかったが、実は日本や韓国と同様の遺伝子組成の中国ではそれらの国にくらべて致死率が高いのである。日本と韓国における致死率がそれぞれ1.9%、1.7%なのに対して、武漢を含む湖北省では6.6%、中国全体の平均でも5.2%に達する。最初の流行地であり、医療崩壊がこのような高い致死率をもたらした面はあるが、近年の中国の大都市における大気汚染は深刻であり、それも一つの要因になっているのではないかと思われる。
皮肉なことに、COVID-19による都市封鎖や経済活動の縮小によって中国の大都市での大気汚染は大分改善されたが(14)、パンデミックが収まったあと再び元に戻ることがあってはならない。SARS-CoV-2が終息しても、再び似たような感染症が出現するであろう。大気汚染がわれわれの健康に及ぼす悪影響は、これまでに考えられていた以上に広範なものなのである。
SARS-CoV-2が今後どのように進化していくかは、いろいろな要因が関わっていてはっきりと予測することはできない。感染拡大の様相、それに対する人間の側の対処法、とりわけワクチンや治療薬などが、ウイルスに対して選択圧として働き、ウイルス進化の方向を決めることになる。有効なワクチンが開発され、世界中で普及するようになればウイルスは行き場を失って絶滅する。天然痘ウイルスはそのようにして自然界からは絶滅した。また家畜のウシの重篤な感染症であり、その流行が世界史を変えたという牛疫を引き起こした牛疫ウイルスもワクチンにより絶滅させることに成功した。ところが、これまでそれ以外のウイルスでそのようにうまくいった例はない。
絶滅にまでいかなくても、宿主を死に至らしめるような重篤な症状を引き起こすウイルスは、弱毒化する方向に進化することが多い。しかし、抗体依存性感染増強の例などで見たように、ウイルスと宿主の間の関係には予測できないことが起こり得るのだ。
*もっと「進化」について知りたい人の入門書:
☆本連載が本になりました!
長谷川政美著『ウイルスとは何か:生物か無生物か、進化から捉える本当の姿』 (中公新書)。ウイルスは恐ろしい病原体か、あらゆる生命の源か――。進化生物学の最前線から、その正体に迫る。
☆いちばん新しい本!
長谷川政美著『進化生物学者、身近な生きものの起源をたどる
』 (ベレ出版)。 イヌやネコやクマなど身近な生き物はすべて進化していまここにいる。もちろんヒトも。生き物の進化が一目でわかる「系統樹マンダラ」を多数掲載(系統樹の「見方」付き)。ささやかな「現代版 種の起原」ができました。
☆はじめの一冊にオススメ!
長谷川政美監修・畠山泰英構成『世界でいちばん素敵な進化の教室
』 (三才ブックス)。 本書は美しい写真とQ&A形式の簡潔な文章で、38億年におよぶヒトを含む生き物の進化を解説した超入門ビュアルブックです。子供から大人まで気軽に楽しんでいただけます。
4刷(2022年10月)。
*もっと「進化」を詳しく知りたい人に
最適の本:
☆本連載が本になりました!
長谷川政美著『ウイルスとは何か:生物か無生物か、進化から捉える本当の姿』 (中公新書)。ウイルスは恐ろしい病原体か、あらゆる生命の源か――。進化生物学の最前線から、その正体に迫る。
構成:畠山泰英(科学バー/キウイラボ)
☆いちばん新しい本!
長谷川政美著『進化生物学者、身近な生きものの起源をたどる
』 (ベレ出版)。 イヌやネコやクマなど身近な生き物はすべて進化していまここにいる。もちろんヒトも。生き物の進化が一目でわかる「系統樹マンダラ」を多数掲載(系統樹の「見方」付き)。ささやかな「現代版 種の起原」ができました。
ブックデザイン:西田美千子
イラスト:ちえちひろ
編集:畠山泰英(科学バー/キウイラボ)
☆はじめの一冊にオススメ!
長谷川政美監修・畠山泰英構成『世界でいちばん素敵な進化の教室
』 (三才ブックス)。 本書は美しい写真とQ&A形式の簡潔な文章で、38億年におよぶヒトを含む生き物の進化を解説した超入門ビュアルブックです。子供から大人まで気軽に楽しんでいただけます。
4刷(2022年10月)。
☆もっと知りたいならコレ!
長谷川政美著『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史 (BERET SCIENCE)
』 (ベレ出版)。 本書は当サイトで連載していた「僕たちの祖先をめぐる15億年の旅」を加筆修正および系統樹図をすべてつくり直して一冊にまとめたものです。カラー図版600点掲載。扉絵は小田隆さんによる描き下ろし。
※紙の書籍は品切れ。電子書籍のみ販売中。
ブックデザイン:坂野 徹
編集:畠山泰英(科学バー/キウイラボ)
☆じっくり読みたいならこちら!
長谷川政美著『進化38億年の偶然と必然: 生命の多様性はどのようにして生まれたか
』 (国書刊行会)。 本書は当サイトの好評連載「進化の歴史」を大幅に加筆修正および図版を刷新。進化にまつわる重要かつ最新トピックスを余すところなく一冊にまとめたもの。
※電子書籍あり。
ブックデザイン:垣本正哉・堂島徹(D_CODE)
編集:畠山泰英(科学バー/キウイラボ)
*もっと「進化」を詳しく知りたい人に最適の本:
長谷川政美著『進化38億年の偶然と必然: 生命の多様性はどのようにして生まれたか
』 (国書刊行会)。 本書は当サイトの好評連載「進化の歴史」を大幅に加筆修正および図版を刷新して一冊にまとめたものです。
ブックデザイン:垣本正哉・堂島徹(D_CODE)
*もっと「進化」を詳しく知りたい人に最適の本:
長谷川政美著『進化38億年の偶然と必然: 生命の多様性はどのようにして生まれたか
』 (国書刊行会)。 本書は当サイトの好評連載「進化の歴史」を大幅に加筆修正および図版を刷新して一冊にまとめたものです。
ブックデザイン:垣本正哉・堂島徹(D_CODE)
長谷川政美著『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史 (BERET SCIENCE)
』 (ベレ出版)。 本書は当サイトで連載していた「僕たちの祖先をめぐる15億年の旅」を加筆修正および系統樹図を全て作り直して一冊にまとめたものです。カラー図版600点掲載。扉絵は小田隆さんによる描き下ろし。
※電子書籍を準備中です。
ブックデザイン:坂野 徹
長谷川政美監修・畠山泰英(科学バー)編集『世界でいちばん素敵な進化の教室
』 (三才ブックス)。 本書は美しい写真とQ&A形式の簡潔な文章で、38億年におよぶヒトを含む生き物の進化を解説した超入門ビュアルブックです。子供から大人まで気軽に楽しんでいただけます。
【バックナンバー】
第1話 微生物で満ちあふれているヒト
第2話 新型コロナウイルス感染症を追う
第3話 COVID-19とネアンデルタール人の遺伝子
第4話 SARS-CoV-2の起源