いま世界に拡がるウイルスは、
リアルタイムで追跡できるほど進化が速い。ウイルスはいわゆる生物ではないが、
私たちヒトを含む生物と共進化する存在だ。
世界的な分子系統学者である著者が、
躍動感みなぎる“進化の舞台”へ読者を誘う。
著者プロフィール
長谷川政美(はせがわ まさみ)
1944年生まれ。進化生物学者。統計数理研究所名誉教授。総合研究大学院大学名誉教授。理学博士(東京大学)。著書に『分子系統学』(岸野洋久氏との共著)『DNAに刻まれたヒトの歴史』(共に岩波書店)、『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史』(ベレ出版)、『世界でいちばん美しい進化の教室』(監修、三才ブックス)、『共生微生物からみた新しい進化学』(海鳴社)、『進化38億年の偶然と必然』(国書刊行会)など多数。1993年に日本科学読物賞、1999年に日本遺伝学会木原賞、2005年に日本進化学会賞・木村資生記念学術賞など受賞歴多数。全編監修を務める「系統樹マンダラ」シリーズ・ポスターの制作チームが2020年度日本進化学会・教育啓発賞を受賞。
のちに「COVID-19」と呼ばれるようになるコロナウイルスによる感染症は、2019年12月に中国武漢で発生した。朝日新聞では2020年の1月10日に、「中国武漢で海鮮市場の関係者を中心に新型コロナウイルスによる肺炎患者が15人確認された」と小さく報道されたのが始まりであった。その後、この感染症は世界中に拡がり、2020年9月末現在までに、世界で確認された患者数が3360万人に達し、100万人以上の命を奪った。
実際にはこの数字よりもはるかに多くの人がこの感染症が直接的あるいは間接的原因で亡くなっていることは確かである。死亡者数のピークにあわせて公式にはこの感染症の患者とは見なされない死亡者の数も増加しており、南アフリカやペルーなどの国では、その数が公式の感染死亡者数をはるかに超えているのである(1)。この感染症を機にわれわれの生活も大きく変わった。
WHOによってこの感染症は、「COVID-19(2019年コロナウイルス感染症)」と命名され、この感染症を引き起こすウイルスの実体も分かってきた。実際には武漢ウイルス学研究所では、この感染症が日本で報道される前の1月7日までにはこのウイルスのゲノム配列を決定しており、1月11日にはデータを公開した。前日の1月10日には、上海の復旦大学のグループが別の患者のウイルスのゲノム配列を公開していた。日本で報道されるようになった頃には、このウイルスについての研究はそこまで進んでいたのである。
これが2002年に中国広東省から拡まったSARS(重症急性呼吸器症候群)の原因となったSARSコロナウイルス(SARS-CoV)に近縁なものであることから、ウイルス分類国際委員会のコロナウイルス部会によって、「SARSコロナウイルス2型(SARS-CoV-2)」と命名された(2)。ところが、SARSは病気の名前であり、COVID-19はSARSとは違った病気であることから、ウイルスの名前としてはそれとは区別して「HCoV-19(2019年ヒトコロナウイルス)」と呼ぶべきだという意見もある(3)。
SARS-CoV-2(あるいはHCoV-19)は、コロナウイルス科のウイルスである(図2-1)。普通の生物のゲノムは二本鎖DNAであるが、コロナウイルスのゲノムは一本鎖RNAである。
一本鎖RNAは二本鎖DNAにくらべると不安定で変異を起こしやすい。インフルエンザウイルスのゲノムも一本鎖RNAであり、しかもインフルエンザウイルスを含めたたいていのRNAウイルスがゲノムを複製する際には、エラーが生じてもそれを修復する機構がないので、突然変異率が非常に高いのだ。そのため、一人の患者のウイルス集団のなかでさえ、違ったゲノム配列が混ざっていることが多く、そのようなウイルスの集団を「擬種(quasi-species)」と呼ぶことがある。
たくさんの宿主に感染すれば、それだけ新しい変異が生じる可能性が高まるので、以前に罹ったインフルエンザの免疫が新しいインフルエンザでは効かないといったことが起こる。そのため、インフルエンザウイルスでは毎年のように新しいワクチン開発が必要になるのである。
一方コロナウイルスは一本鎖RNAの中では珍しく複製の際に起こるエラーを修復する機構をもっているため、コロナウイルスの1塩基座位あたりの変異率はインフルエンザウイルスにくらべると低い。
インフルエンザウイルスは1回複製するたびにゲノムあたり2.4~3.4個の突然変異を蓄積する。コロナウイルスはこれにくらべると塩基当たりでははるかに変わりにくいが、コロナウイルスは一本鎖RNAウイルスの中では最大のおよそ30kb(kb: 1000塩基)ものゲノムサイズをもっているために、ゲノム全体で蓄積していく変異数でみるとそれぞれの系統で年あたり平均18~54個の突然変異を蓄積する(4)。従ってこの変異を使ってこのウイルスの感染経路を追うことができる。
2019年12月に武漢で採取されたSARS-CoV-2の最初のゲノム配列は2020年1月上旬には公開され、その後感染が世界中に拡まるにつれてデータ量も爆発的に増え、2020年10月7日現在で13万9000件に達している(https://www.gisaid.org/)。これらのゲノムデータを用いて、このウイルスの感染経路を含めて様々なことが明らかになってきた。
まず世界中に広まったSARS-CoV-2はすべて2019年末の武漢で採取されたウイルスに非常に近い1つの祖先ウイルスから由来していることが分かる(図2-2)(4)。
オランダでは2020年2月27日にCOVID-19の最初の感染者が確認された。その後間もない3月にオランダ南部の3つの病院の医療従事者1万2022人の15%にあたる1796人を調べたところ、5%にあたる96人がSARS-CoV-2陽性となったという。このことから院内感染が疑われた。しかし、陽性の医療従事者50人と入院患者18人のウイルスのゲノムを調べて系統樹を描いたところ、ほとんどの感染は院内感染ではなく、病院外から独立に持ち込まれたものであることが判明した(5)。同じ時期に一つの病院で複数の感染者が出たとしても、必ずしも院内感染によるものだとは限らないことが、ゲノムの解析で明らかにされたのである。
また、アメリカ・カリフォルニア州北部の感染者から得られたSARS-CoV-2のゲノムデータをアメリカ各地や世界中から得られたものとあわせて系統樹解析を行なったところ、少なくとも7つのいろいろな地域から独立に持ち込まれたものであることが判明した(6)。SARS-CoV-2は感染するたびに変異するほど突然変異率は高くないので、まったく同じゲノムのウイルスをもった感染者が何人かいるが、感染を繰り返す間に少しずつ変異を蓄積するので、感染経路を追うことができるのである。
イギリスの研究者たちはさらに大規模な解析を行なった(7)。彼らはイギリスの感染者から集めた2万件以上のSARS-CoV-2のゲノムデータを世界中のデータとあわせて系統樹解析を行ない、イギリスで感染しているウイルスには、1356個の系統があることを明らかにした。つまり、外国から1356回にわたって独立に持ち込まれたということである。その内訳は、スペイン、フランス、イタリアからが最も多く、それぞれ34%、29%、14%になった。
ただし、このように膨大な数の配列データの系統樹解析では、細部まで信頼性の高い系統樹が得られているとは限らない。ある程度の数の置換が蓄積していないと、枝分かれの順番をはっきりと確定することは難しいので、このような解析をもとにして議論する際には注意が必要である(8)。
コロナウイルスのスパイクたんぱく質は、コロナウイルスの名前の由来になったウイルス表面の突起を形づくるものである。SARS-CoV-2が宿主の細胞に入り込むときは、ウイルスの表面にあるスパイクたんぱく質が、宿主細胞の受容体である、ACE2(アンジオテンシン変換酵素2)と最初にくっつくことが必要である(図2-3)。スパイクたんぱく質の受容体結合領域は、ヒトのACE2に結合しやすいようになっているのである。
2020年10月7日現在で13万9000件のSARS-CoV-2ゲノム配列がデータベースに登録されているという話をしたが、これには2019年12月の武漢での最初のウイルスをはじめとしたさまざまな時点のウイルスが含まれる。このことは、発生以来およそ10か月間のウイルス進化の歴史を追跡できるということである。
通常の生物進化では、進化の途中の過程を詳しく追うことは難しい。化石はその過程を示してくれる貴重な手掛かりを与えるが、得られた化石が現存生物の直接の祖先であるという保証はない。現存生物の祖先に近縁な生物であったとしても、子孫を残すことなく絶滅してしまった系統かもしれないのである。
一方、SARS-CoV-2の場合は、13万9000件以上にもおよぶゲノム配列を解析することによって、次第に変化していく詳細を追うことができる。ヒトに感染するようになって以降は、祖先ウイルスのゲノム配列も完全に分かっている。ほとんどリアルタイムで、変異を蓄積しながらこのウイルスが進化していく様子さえも追うことが出来るのである。ただし、第4話のテーマである、この系統樹をさかのぼってそもそもSARS-CoV-2が何に由来するウイルスかという問題に関しては、祖先配列が必ずしも残っているわけではなく、不明なことも多い。
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構成:畠山泰英(科学バー/キウイラボ)
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ブックデザイン:西田美千子
イラスト:ちえちひろ
編集:畠山泰英(科学バー/キウイラボ)
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編集:畠山泰英(科学バー/キウイラボ)
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編集:畠山泰英(科学バー/キウイラボ)
【バックナンバー】
第1話 微生物で満ちあふれているヒト