ヒトとチンパンジーの共通祖先は600万年前に生きていた。
この地球上に、ヒトとゾウの共通祖先は9,000万年前、
ヒトとチョウの共通祖先は5億8,000万年前、
ヒトとキノコの共通祖先は12億年前に生きていた。
15億年前には、ヒトとシャクナゲの共通祖先が生きていたという…。
著者プロフィール
長谷川政美(はせがわ まさみ)
1944年生まれ。進化生物学者。復旦大学生命科学学院教授(中国上海)。統計数理研究所名誉教授。総合研究大学院大学名誉教授。理学博士(東京大学)。著書に『分子系統学』(岸野洋久氏との共著)『DNAに刻まれたヒトの歴史』(共に岩波書店)『新図説 動物の起源と進化―書きかえられた系統樹』(八坂書房)『遺伝子が語る君たちの祖先―分子人類学の誕生』(あすなろ書房)など多数。1993年に日本科学読物賞、1999年に日本遺伝学会木原賞、2005年に日本進化学会賞・木村資生記念学術賞など受賞歴多数。
狭い鼻という名の付いた「狭鼻猿類(きょうびえんるい)」の姉妹群が、広い鼻という名の付いた、南アメリカにいる広鼻猿類(こうびえんるい)です。狭鼻猿、広鼻猿という名前はそれぞれのサルの鼻の形が由来です。
冒頭の写真、ニホンザル(図4-1a)の顔をよく見てください。左右の鼻の穴は近接していますね。前回登場したクロツメバナザル(下の写真)も左右の鼻の穴は近接しているのが分かるでしょう。これらのサルは、狭鼻猿類オナガザル上科です。
それに対して、図4-1bの広鼻猿類クモザル科のアカホエザルの左右の鼻の穴はだいぶはなれています。鼻の穴が左右に広がっている広鼻猿類は南アメリカだけに分布していますが、アメリカ大陸のことを新世界というので「新世界ザル」とも呼ばれます。
一方、アジア、ヨーロッパ、アフリカは旧世界というので、そこに住むオナガザル上科のサルのことを「旧世界ザル」と呼びます。
新世界ザルはすべてオマキザル上科に分類されます。この仲間のサルはたいていとても長い尾をもち、上の写真(図4-2)のクモザルのように、しっぽを枝に巻きつけて木の上でからだを支えるのに使えることが、「オマキザル(尾巻き猿)」の名の由来です。
クモザルの尾には指紋のような「尾紋」があり、モノをつかんだ際にすべらないようになっています。さらに、クモザルは4本の足だけでなく、尾も手のように使うことができるのです。
一方の狭鼻猿類オナガザル上科のサルも、長い尾を持つものが多いのですが、オマキザル上科のサルのように尾を枝に巻きつけてからだを支えるのに使うことはできません。
新世界のオマキザル上科には、マーモセット、ヨザル、リスザルなどのオマキザル科、クモザル、ホエザルなどのクモザル科、ウアカリ、サキなどのサキ科が含まれます。
これら新世界の広鼻猿類の共通祖先が、下図の系統樹マンダラ(前回の図3-1と同じ)にある「○2」です(抹茶グリーン色のエリア、一部拡大図もご覧ください)。新世界ザルはどれもその祖先をたどっていくと共通の祖先○2に行きつくのです。
南アメリカで見つかっている霊長類の一番古い化石は、およそ2,600万年前のもので、それよりも古い霊長類の化石はまったく見つかっていません。従って新世界ザルの祖先は地球上のどこかほかの場所から移住してきたと考えざるを得ないのです。
どこからやって来たかについてはさまざまな説がありましたが、現在ではおよそ3,400万年前にアフリカから海を越えて渡って来たものと考えられています。この考えは一見とんでもなく奇抜で信じ難いものに思われるかもしれませんが、他の可能性が考えにくいのです。
対立する仮説としては、新世界ザルの祖先が北アメリカからやって来たという考えがありました。そのころ北アメリカは南アメリカとは離れていましたが、アフリカよりはずっと近かったことは確かなので、北アメリカ起源説は一見説得力がありそうでした。ところが、北アメリカからは、新世界ザルの祖先になりそうな化石が見つかっていないのです。
一方、アフリカからは新世界ザルに似た化石が見つかっています。しかもその当時のアフリカと南アメリカの距離は現在よりもずっと短く、海流もアフリカから南アメリカの方向に流れていたので、海流に乗って渡ることが可能だったと考えられます。
もちろんアフリカから南アメリカに海を越えて渡るのは容易なことではなかったはずですが、たとえ数百万年に一度しか起り得ないようなまれなことでもいったんそれが起れば、その後の進化の歴史を大きく変えることになります。
新世界ザル以外にも、祖先がその頃にアフリカから南アメリカに渡って来たと考えられる哺乳類がいます。テンジクネズミ(モルモット)、マーラ(図4-3a)、カピパラ(図4-3b)、オマキヤマアラシ、カナダヤマアラシ(図4-3c)などげっ歯目テンジクネズミ上科のなかで新世界に生息する動物たちです。
従って、その頃はアフリカから南アメリカへ海を越えて移住するのを可能にする特別な状況があったのかもしれません。これら新世界のテンジクネズミ上科の動物のうちカナダヤマアラシは、北アメリカに生息していますが、彼らの祖先は南アメリカで進化したあと、300万年前に陸続きになった北アメリカに進出したものです。
それでは、新世界ザルの祖先はどのような方法で海を渡れたのでしょうか? 下の写真(図4-4)は尾瀬の沼にできた「浮島」で、水草などの植物の枯れたものが積み重なってできたものです。
浮島は固定された島ではなくて、水面に浮いています。これがもっと大規模になると長さが100メートルを超えることもあり、動物のえさになるような実のなる木が生えることもあります。実際にカリブ海でココナッツの木が生えていて、たくさんのサルが乗っている浮島が漂流しているのが目撃されたこともあります。
このような浮島が洪水などで河を下って海に流されるということもあったでしょう。アフリカでできた浮島に新世界ザルの祖先がたまたま乗っていて、南アメリカまで漂流したということもあったと考えられます。
新世界ザルがアフリカから南アメリカに渡って来たのは今からおよそ3,400万年前と考えられますが、あとで話に出てくる大陸移動があるために、その頃の南アメリカ大陸は今よりはアフリカ大陸に近かったのです。しかもアフリカから南アメリカの方向に海流が流れていて、長い年月の間にはこのような移住が成功する可能性は十分にあったと考えられます。
約3,400万年前、浮島に乗って大海を渡り、南アメリカに運よくたどり着いた新世界ザルの祖先は、競争相手のいない新天地でのびのびと進化をとげたのです。
一見あり得ないようなことがたまたま起ったことによって、系統樹マンダラ(図3-1)の共通祖先○2から南アメリカの実に多様な霊長類のすべてが進化したのです。
アフリカから南アメリカに向けた霊長類の航海は何回もあったものと思われますが、たくさんの失敗のなかでたまたま成功した"航海"が霊長類進化のその後の歴史におよぼしたインパクトは甚大なものでした。
新世界ザルの祖先が北アメリカからやってきたという仮説は、北アメリカには新世界ザルの祖先になりそうな霊長類の化石が見つからないことと、アフリカでは新世界ザルの祖先になりそうな化石が見つかることから否定されたことをすでに話しました。
実はもう一つ検討されながら消えた仮説がありました。それは陸伝いにアフリカから南アメリカにやってきたというものです。発想の源は、中生代白亜紀のある時期まではアフリカと南アメリカはつながっていた、という地質学の研究成果です。
かつてつながっていたアフリカと南アフリカが、現在のように分かれたことによって、南アメリカの新世界ザルとアフリカの旧世界ザルとが別々の進化の道を歩んだと考えれば、一番簡単に説明がつきます。
しかし、残念ながらこのような仮説は成り立たないことが分かってきました。それはアフリカと南アメリカが分かれた年代がおよそ1億500万年前であり、霊長類の進化の歴史を考えるとあまりにも古過ぎるからなのです。従ってやはり、新世界ザルの祖先はアフリカから海を越えて南アメリカにやってきたと考えるしかないのです。
シャーロック・ホームズは、「起りえないことを一つずつ取り除いていけば、最後に残ったものがたとえどんなに起りそうもないことのように思えても、それが真実に違いないのです」と言っています。
新世界ザルの起源の探求でもそのようなことがあったのです。可能性が極めて低いことは、起りそうもないことではあっても、起りえないことではないのです。
*もっと詳しく知りたい人に最適の本:
長谷川政美著『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史』 (ベレ出版)。 本連載に大幅な加筆をして、新たな図版を掲載したものです。
扉絵:小田 隆
ブックデザイン:坂野 徹
【バックナンバー】
第1話 旅のはじまり
第2話 ヒトに一番近い親戚
第3話 ニホンザルとヒトの共通祖先
第4話 マーモセットとヒトの共通祖先
第5話 メガネザルとヒトの共通祖先
第6話 ネズミとヒトの共通祖先
第7話 クジラの祖先
第8話 イヌとヒトの共通祖先
第9話 ナマケモノとヒトの共通祖先
第10話 恐竜の絶滅と真獣類の進化
第11話 卵を産んでいた僕たちの祖先
第12話 恐竜から進化した鳥類
第13話 鳥類の系統進化
第14話 カエルとヒトの共通祖先
第15話 ナメクジウオとヒトの共通祖先
第16話 ウミシダとヒトの共通祖先
第17話 クラゲとヒトの共通祖先
第18話 キノコとヒトの共通祖先
第19話 シャクナゲとヒトの共通祖先
第20話 旅の終わり
*もっと詳しく知りたい人に最適の本:
長谷川政美著『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史 (BERET SCIENCE)
』 (ベレ出版)。 本連載に大幅な加筆をして、新たな図版を掲載したものです。
扉絵:小田 隆
ブックデザイン:坂野 徹