のんびり森の落ち葉の下で暮らす、小さなダニ。
ドイツやフランスではチーズ作りにいそしみ、
アメリカではかつて子供たちのおもちゃだった、健気なダニ。
人にワルさをするダニも少しはいるけれど、
ほとんどのダニは、自由きままに生きる平和主義者なのです。
著者プロフィール
島野智之(しまの さとし)
1968年生まれ。横浜国立大学大学院工学研究科修了。博士(学術)。農林水産省東北農業研究所研究員、OECDリサーチフェロー(ニューヨーク州立大学)、2005年宮城教育大学准教授、フランス国立科学研究所フェロー(招聘、2009年)を経て、2014年4月法政大学教授に着任。2017年日本土壌動物学会賞受賞。
著書に『ダニのはなしー人間との関わりー』(島野智之・高久元編、朝倉書店)、『ダニ・マニア《増補改訂版》』(島野智之著、八坂書房、2015年)、『日本産土壌動物―分類のための図解検索―第2版』(分担執筆、東海大学出版部、2015年)、『生物学辞典』(編集協力者、分担執筆、東京化学同人)、『進化学事典』(分担執筆、共立出版)、『土壌動物学への招待』(分担執筆,東海大学出版会)、『ダニの生物学』(分担執筆,東京大学出版会)など
ダークマター(暗黒物質)、とても魅力的な言葉だ。映画「スター・ウォーズ」で人気が高いのはダース・ベイダー。なんとなく、ダークな響きは人を魅了するところがある。
ダークマターとは、我々の周囲に常に存在し、目には見えないし確かにそこにある謎の存在。宇宙の物質の約85%がこのダークマターによってできていて、私たちが知っている通常の物質は約15%にしかならないのだという。
ダークマターは、我々人間もふくめて、あらゆるものを取り巻いていながら光も電波も発することがなく、質量は持つが直接観測できない。ダークマターは、結局、具体的に何で構成されるのかについて現状のところ不明とされている。
しかし、宇宙の成り立ちを考えるためには、光を発しない未知の物質ダークマターの質量を計算に入れないとそれが成り立たないらしい。ダークマターが持つ質量によって引き起こされるいくつかの宇宙の現象を通じて存在が推測されているに過ぎないが、常識としては、ダークマターが存在していることは確実というレベルにかなり近いようだ。
これは、何かに、かなり似ている。
そう、私たちの身近にいるものの認識できないあの生物……。節足動物の世界のダース・ベイダーは、“悪の代名詞“のダニであろう。
地球上に、昆虫類は106万種、ダニ類は5万5千種(Zhang, 2013)。昆虫に比べたら、圧倒的に種数は少ない。しかしながら、昆虫とは違って、我々人間の生活環境には常に生息している。また、陸上だけではなく深海6000 mにまで生息している記録がある。明らかに昆虫よりも広範囲、かつ季節を問わず、どこでもいつでも生息しているのがダニ類である。
話を宇宙から地上へ、ぐっと身近な暮らし、さらに僕たちの健康にまつわる話をしよう。ダニ恐怖症をご存知だろうか。室内にダニが沢山いることが怖くなって、日常的な暮らしが送りづらくなる状態だ。この気持ち、なんとなくわかる。仮想敵“虫”は吸血性のマダニではなくて、室内に生息するダニである。
どことなくダニの多そうな部屋は確かにある。僕もそんな場所に行くとモゾモゾすることがある。このモゾモゾ感。なんだか、体の上をダニがはっているような気がする。
あるとき、この感覚が本当かどうか確かめてみた。大量のチーズコナダニが付着したチーズを口に入れたのだ。すると、感覚器官としてもっとも優れている部分のひとつであろう舌の上にダニ付きチーズを置いても、チーズコナダニの存在はまったく感じなかった。
小さなブユや蚊などは、人間の体毛に触ったり、掴んだりして揺らすので、多くの人は自分の体毛の揺れによって虫が体の表面を歩いているのを知覚できる。しかし、室内塵に生息するダニ(コナダニ類)のサイズでは、人間の体毛を揺らすことは出来ないはずだ。
室内塵に生息するチリダニ類(ヒョウヒダニ類)は、アレルギーの原因になるが人を刺さない。刺すのはこれらチリダニ類を捕食するツメダニ類だ(これは日本人の研究者が証明した大きな業績)。このチリダニ類も小さいので、人間の体表を歩いているのを人間が知覚するのは無理だろう。つまるところ、あのモゾモゾ感は明らかに気のせいなのだ。
ダニ類きっての凶悪犯はマダニだろう。人間から血を吸うマダニは、誰からもいやがられる存在だ。「街のダニ」とは、マダニが動物に食らいついて離れず、何日もその血を吸血し、大きくなる姿を例えているのだろう。他人の血を何日もすすりながら、自分は肥え太るわけだ。
しかしながら、立派な感じのするマダニもいたりする。ヤマトマダニというマダニは、名前も日本男児のような勇ましい感じがしないだろうか。何でも、昭和天皇の左上腕に食いついたマダニが新種として記載された。そのダニがヤマトマダニ。「街のダニ」っぽくはない。
さて、一般的に脚が4対でクモの仲間(クモガタ類)であるマダニのメス成虫は、産卵のために吸血する。満腹になると、体重は吸血する前と比べて約100倍以上も増加する(第3話参照)。身体の体積も単純計算で約100倍以上になっている。北岡(1977)によれば、フタトゲチマダニでは体重が139倍から149倍、オウシマダニでは127倍、もっとも体重が増えた場合には200倍を超えるという。
単純に100倍になるとしても、マダニのメス成虫が、もし体重50 キログラムの人間と同じ大きさだったとしたら、満腹になると5000キログラム、つまり5トンになる計算だ。人間だったら、たらふくご飯を食べて肥え太り、中型トラックと同じ重さになったというような具合。「街のダニ」どころではない。
マダニの嫌らしいところは、吸った血液の水分を濾過して動物に戻し、赤血球などの成分だけを自分に取り込むことだ(まるで成分献血)。もし仮に血を吸われたとしても、それを唾液と共にふたたび自分に戻されるのは、かなり嫌だ。Kitaoka (1961)によれば、2.5倍から9倍に血液を濃縮していることになる。
フタトゲチマダニというダニは、宿主の動物に口器を7日間も差し込んで血を吸い続けることができる。しかし、最初の5日間は、動物から摂取した血液を栄養として、マダニ自身の体の皮膚(クチクラ)を付け足して厚くする(皮膚の細胞エピダーマルセルがクチクラを合成・分泌する)。
メスとオスは同時に宿主に取り付いているが、オスは得た栄養をつかって精子を作りながら、5日ほどでメスよりも早く満腹になる。すると、同じ宿主上で吸血を続けているメスを探して交尾をする。
メスは吸血を続けながらオスがやって来るのを待って交尾する。交尾の刺激が、メスの身体のクチクラの柔軟化を促し、また、急激な吸血をうながす。最後の2日間で大量に吸血を開始する。そして十分に準備された身体は一気に膨張することになる(以上、Okuraほか, 1997:これも日本人の仕事だ!)。
脚が3対である昆虫の仲間の蚊のメス成虫も動物から吸血するが、血液をすべてため込むので、すぐに満腹になってしまう。たまに、満腹になって血液の成分をオシッコとしてお尻から出す雌の蚊を見かけるが、たいした量ではない。そのようなわけで、蚊の産卵数は一般に100-200個であるのに比べ、ダニはより多くの血液の成分(栄養:コレステロールが必須物質)を取り込むことが出来るので、1匹のメスのマダニは、数千から2万を超える卵を産むことが出来る。
「ダニはもともと、恐竜や動物にとりつき血を吸うために地球上に出現したのか?」と聞かれることがある。答えはおそらく「NO」である。ダニ類は約4億年前に地球上に現れたらしい。これは、哺乳類や恐竜の出現よりもはるか以前であり、脊椎動物で陸上への進出を成し遂げた両生類の誕生、約3億6000万年前よりも以前のことである。
おそらくダニ類やダニ類の直接の祖先は、自然のなかで脊椎動物との関係を全く持たず(当時、脊椎動物は魚類のみである)、他の節足動物を補食する生物として他のクモガタ類から派生して出現したのだろう。
悠々自適に生活していたダニ類。そのなかから出現し、いつのまにやらダース・ベーダーのように、ダークサイドに落ちたマダニ。それでも結構、宿主動物の上でロマンチックな生活を送っているようだ。
最後に、キスが室内塵ダニのアレルギーを抑える効果があるという報告を紹介しよう。「イグ・ノーベル賞」は、世の中を笑わせ、考えさせられる研究や業績に贈られる賞であるが。2015年9月に受賞した研究成果は、アトピー性皮膚炎の患者に、パートナーと30分間の熱いキスをしてもらったところ、アレルギー反応が弱まったというものだ。受賞したのは、日本人でアレルギーの専門クリニックの院長木俣肇さん。キスの前と後にはアレルギー反応の強さを調べるための皮膚テストや血中成分を測定したそうだ。患者は、キスの後、キスをする前と比べてダニやスギ花粉に対するアレルギー反応が大幅に抑えられたという。
キスは口と口を合わせる行為だが、ダニにも口はある。あるササラダニの口(口器と呼ぶ)を腹面からみると、ダース・ベイダーの顔にそっくり! 1996年にHunt博士によって発見されたその新種のダニの学名は、Darthvaderum greensladeaeと名付けられた。何百年か後、「スター・ウォーズ」を知らない時代になれば、なぜこの学名がついたのか? ダース・ベイダーとは何か? を調べることになるに違いない。
【バックナンバー】
第1話 ダニはチーズをおいしくする
第2話 ダニとたわむれる夢をみた
第3話 世にダニの種は尽きまじ
第4話 ダニが翔んだ日
第5話 すごいダニ
特別編1 チーズダニを探す旅
第6話 酒と薔薇の日々