のんびり森の落ち葉の下で暮らす、小さなダニ。
ドイツやフランスではチーズ作りにいそしみ、
アメリカではかつて子供たちのおもちゃだった、健気なダニ。
人にワルさをするダニも少しはいるけれど、
ほとんどのダニは、自由きままに生きる平和主義者なのです。
著者プロフィール
島野智之(しまの さとし)
1968年生まれ。横浜国立大学大学院工学研究科修了。博士(学術)。農林水産省東北農業研究所研究員、OECDリサーチフェロー(ニューヨーク州立大学)、2005年宮城教育大学准教授、フランス国立科学研究所フェロー(招聘、2009年)を経て、2014年4月法政大学教授に着任。2017年日本土壌動物学会賞受賞。
著書に『ダニのはなしー人間との関わりー』(島野智之・高久元編、朝倉書店)、『ダニ・マニア《増補改訂版》』(島野智之著、八坂書房、2015年)、『日本産土壌動物―分類のための図解検索―第2版』(分担執筆、東海大学出版部、2015年)、『生物学辞典』(編集協力者、分担執筆、東京化学同人)、『進化学事典』(分担執筆、共立出版)、『土壌動物学への招待』(分担執筆,東海大学出版会)、『ダニの生物学』(分担執筆,東京大学出版会)など
少し季節外れの話題になってしまうけれど、寒い冬が終わり、過ごしやすい春になった5月頃のことを思い出してほしい。週末のお昼ごろに近くの公園に散歩に出かけた、あなた。ポカポカの陽気につつまれて、空いているベンチに腰を下ろして、ぼんやりとしている。そこで、ふと視線をベンチに落とすと、ベンチの上を動き回る小さな赤い虫。うわっ! このような、ゾッとした経験はないだろうか。僕も子供の頃は、この小さな赤い虫を気味わるく感じたことを覚えている(図2-1)。
ダニ学者になってからは、この季節になると「この赤いダニは人を嚙むのでしょうか?」「赤い色は血を吸ったからでしょうか?」という質問を頻繁に受けるようになった。答えは「いいえ」。
小さな赤い虫は、カベアナタカラダニ Balaustium murorum (Hermann)という和名と立派な学名が付いている(図2-2)。「アカダニ」と呼ばれることもあるが、一般的にそう呼ばれているだけで、科学的根拠のある名称ではない。いずれにしても人間には一切迷惑をかけないので安心していただきたい。人間の目には見えないが、春先、コンクリートやベンチの上には無数の花粉が落ちている。彼らはこの花粉を食べているのである。
カベアナタカラダニはかつて、ハマベアナタカラダニと呼ばれていた。ハマベアナタカラダニは、春先に浜辺(ハマベ)の石の上で走り回る赤いダニに付けられた和名(学名はまだない)。
名前が変わる前、僕は春先に赤い小さな虫を見るたびに、「ハマベアナタカラダニ」と当時は正しかった和名を呟いていた。すると、どこからか海の風が吹き、磯の香りが鼻先をくすぐり、ツバメよりも一足先に、僕にもうすぐ来る夏を感じさせてくれていた。
しかし、その後の研究で、浜辺に棲むアナタカラダニと、人間に身近なところに棲むアナタカラダニの種類は違うことがわかったのだ。そこで、人間に身近なところに棲むほうに「カベアナタカラダニ」という和名がついて区別されている。
カベアナタカラダニは、走査型電子顕微鏡で見ると、その姿はとても可愛い(図2-3)。身体が一面の毛で覆われているのでケダニ類というグループに所属する(図2-4)。
カベアナタカラダニの写真を見た日、僕はタカラダニになって昆虫と一緒に空に舞い上がる夢を見た。宝石のような甲虫の体にくっついて、蒸し暑い熱帯雨林の樹冠をこえて、まぶしい空に溶け込む夢だった。タカラダニになら、なってみてもよい。春先に花粉を食べながら自由気ままに過ごす一生もよさそうだ。せめて公園のベンチに座って、クルクル回るカベアナタカラダニとゆっくり遊んでいたい。
注:カベアナタカラダニ Balaustium murorum (Hermann)は、一生花粉を食べて生活していることが知られている。他のタカラダニのように昆虫に便乗することはない。
【バックナンバー】
第1話 ダニはチーズをおいしくする