めざすは南極、しかも冷た〜い湖の底。
なぜ行くのか? それは珍しい生き物がいるから!
世界一深いマリアナ海溝の高画質撮影を成功に導いた、
若き水中ロボット工学者が、南極大陸の地を踏み、
過酷な現地調査に同行することになったのだが…。
著者プロフィール
後藤慎平(ごとう しんぺい)
大阪生まれ。筑波大学大学院博士後期課程修了。博士(工学)。民間企業、海洋研究開発機構を経て、東京海洋大学助教。専門は深海探査機の開発、運用。2014年から生物研究にまつわる海洋機器開発に取り組み、2018年には南極の湖底に生息するコケボウズを水中ロボットで撮影する、世界初のミッションを成し遂げた。雑誌「トラ技 jr」にて「深海のエレクトロニクス」を連載中。
翌朝、ASがきざはし浜へ文字通り飛んできた。私はメンバーに見送られてきざはし浜を飛び立つ。昭和基地の方面は既に黒く重い雲が立ち込めている。もう数時間もしない内に天候が崩れるに違いない。風も強くなりつつある。時折、横にスライドするように機体が風に持って行かれるのが分かる。
ベテランパイロットのMさんは何回も南極の空を飛んでいるので、こういう状況でもいろいろと周囲の様子を説明しながら飛んでくれる。途中、ラングホブデ氷河の上をフライパスすると氷河調査チームが見えた。定時交信では過酷な調査状況が続いていると聞いていたが、無事に調査が出来ているようだった。
管理棟の裏口らしきところから入り、渡り廊下っぽいところを抜けて、昭和基地唯一の診療所「温俱留中央病院」に入る。本当なら写真の1枚でも撮りたいところだが、病気で迷惑かけてる人間がそんなことしてたら張り倒されそうなのでグッと堪える。
中に入ると58次隊の医療スタッフが待っていて、ひとまず荷物を降ろして風呂に入ってくるように促された。うん~やっぱり数日でも臭いのだろうか? そんなことを思いながら、昭和基地の中を歩いて管理棟にある風呂に入る。洗い場が幾つかあり湯舟もあって広々としている。
一通りの汚れを落として診療所に戻ると、すぐさま診察が始まった。まずはレントゲン。次に採決。結果が出るまでは時間が掛かるのでベッドで寝ながら与太話をしていると、59次隊のドクターが駆け付けてくれた。
「どーしたの? 風邪? あぁ~疲れだよ、疲れ。薬飲んで寝てれば直るからさ」
ドクターとは冬訓練で同じチームだったので、それ以来とても良くしてくれていた。そのため、今回も風邪で運び込まれると聞いて、他の作業を中断して駆け付けてくれた。ホントに有難い。
1時間ほどで検査の結果が出た。肺や血液には問題がなさそうなので、例の謎な薬とマスクを渡されて第2夏宿に入ることになった。第2夏宿というのは管理棟から一番離れた場所に位置する宿泊棟で、夏期間の作業や観測に来る夏隊の中でも、主に研究者たちが入居する宿舎である。
トラックを降りて宿舎に入ると、ブーツや防寒着を脱ぐ玄関に当たる場所には荷物が雑然と積まれている状態だった。さらに中に入ると、居間のような場所があり、その奥には若槻千夏のポスターが張られた扉がある。この奥が各隊員の寝室だ。
しばらくすると、昭和基地と各野外観測地点との定時交信が始まり、無線機から各チームの状況が聞こえてくる。なるほど。タマゴパン事件の時もこうやって、みんな聞いていたのか。しかし、野外チーム側の声は聞こえない。昭和基地からの発言内容を聞いて想像するしかない。やがて、きざはし浜小屋の交信となった。
「きざはし浜小屋、了解です。明日からのスカーレン調査のあと、きざはしに戻って長池のROV調査の予定ですね。」
きざはし浜小屋からの声は聞こえなかったが、恐らく極地研のTさんが交信担当だろう。自分が回復して戻ってくることを信じて、今後の予定にしっかりとROV調査が入れ込まれている。なんとしてもその期待に応えなければ。そんな思いで無線を聞いていると、第1夏宿から徐々に人が戻り始めていた。
「なんか、さっき越冬隊長に聞いたら、もう後藤さんをきざはし浜に戻さないって言ってましたよ?」
と、ある隊員が教えてくれて頭が真っ白になる。ついさっきの交信で、今後の調査予定にROV調査が入っていたじゃないか? 他のメンバーでやるのか? いや、そんなはずはない。だが、恐らくこのままではここ(昭和基地)に留め置かれて、私の南極観測は未完了のまま終わりを迎えることになる。頭の中をぐるぐると嫌な予感が駆け巡り、居ても立っても居られなくなった。
「なんとしてでも、きざはし浜に戻らないと!」
何のために南極まで来たのだ? 多くの人に支えられてここまで来たのに、風邪ごときで手ぶらで帰るのか? いや、それ以上に問題なのは、極地研のTさんや他のメンバーの今後の研究にも影を落とすことになる。粗悪な歯車でもまだ辛うじて回るならそれでいい。ここで歯車が脱落して全体が機能しなくなるよりはよっぽどいい。
風呂に向かう隊員を捉まえて一緒に第1夏宿に向かう。食堂には庶務担当者がいた。
「きざはし浜に戻れないって、どういうことですか!?」
庶務担当者は答えにくそうにしていた。
「管理棟に行きます。越冬隊長に直談判します!」
「待ってください。もう夜も遅くなるし、歩いて管理棟に行くのは無茶です。それに体調悪いんだから今日はゆっくり寝てください」
「このまま2夏に居ても、風邪が蔓延するかもしれませんよ? せめて、明日の自衛隊員の交代便でしらせに戻してください」
昭和基地は管理棟が離れた位置にあり、無線交信もヘリオペレーションも直接聞くことが出来ない。しかも、ヘリオペレーションの采配を握る越冬隊長は管理棟に詰めている。直談判も出来ない。それに比べ「しらせ」は、隊長が近くにいるため、幾分、交渉の余地があるのではないかと考えたのだ。
幸いにも明日は昭和基地に居る自衛隊員の交代でヘリが飛ぶ。それに乗ってしらせに戻れたら、4日後のスカーレンからの湖沼チームのピックアップ便に乗り込むことが出来るかもしれない。
「このままココに居ても他の人に風邪をうつすかもしれません。明日の便でしらせに戻らせてください。お願いします」
椅子から立ち上がって机に両手をついて、気持ちを込めて頭を下げた。そうでもしなければ気が済まなかったのだ。湖沼チームのメンバーがここまで築いてきたものが失われるような気がして、必死の思いで頼み込んだ。周りで見ていた他の隊員には無理難題を言ってると思われたかもしれない。でも、何年も掛けて準備してきた研究を止めたくなかった。
「分かりました。一応、越冬隊長には伝えておきます。ただ、もうすぐ外出禁止令が出るので、いつ伝えられるか分かりませんし、ここで待っていても体調が悪くなると思うので、とにかく2夏でゆっくり休んでください」
庶務担当者にそう言われ肩を起こされ、私は力なく椅子に座り込んだ。感触としては、そのとき希望はゼロに近かった。